今週はNY州の北の端、オンタリオ湖に近いロチェスターへ来ています。
ここには世界を代表する企業の本社が3つもあるのですが、この街の発展にとって一番重要だったのはカメラ、フィルム・メーカーの”コダック”!! コダック創始者のジョージ・イーストマン(1854-1932)は、大学や音楽学校などに多大の寄付をして、ロチェスターの経済的、文化的貢献度は計り知れない様です。
街の中でも目立つこのクラシックなビルがコダックの本社ビル。 この世界を制覇した大企業が破産宣告したのは去年のこと。 カメラのデジタル化が進む中、同じフィルム・メーカーだったFujiフィルムと生き残り策を見付けられなかったコダックは明暗を分けたわけですが、写真、映画で一時代を築いた大企業。 このまま消えてしまうのでしょうか?
コダック・タワーは1914年の築。 当時は一番高いビルだったそうですが、街のあちこちや住宅街には往時をしのぶ素晴らしい建築物や住宅があって驚きます。 この建物もかなりの存在感です。そのコダックのビルのすぐ近くにあるのがこのHigh Falls。 街の中を流れるジェネシー川から落ちる滝なのですが、こんな町のすぐ横に滝があるのには驚きます。
以前は発電にも使われていたようですが、あまりの寒さに滝の周辺はつららだらけです。
先にも言った通り、街には豪勢な建築物がいくつもあるのですが、ひときわ目を引くこのTimes Squareと言うビル。
アート・デコな美しいデザインのものが多いのですが、この建物も往時を偲ばせますね。 まるで夜になると屋上からバットマンが降りて来そうです。
1823年に架けらてた水道橋。 1920年代には上に道路橋が付け加えられたようですが、この街、アメリカには珍しく随分昔から発展していたんですね。
コンタクトレンズを使っている人にはこのロゴはお馴染みですね。 そうボシュロムです。 なんとこの会社もここが本社。
もとはと言うとドイツから移民で来たボシュさんとロムさん。 お互い移民と言うことで仲良くなって1853年にメガネや望遠鏡をドイツから輸入するお店を開業。 事業はなかなか軌道に乗らなかったものの、1863年に道端で拾ったゴムシートからメガネのフレームを打ち抜くプレス機を開発して、大量にフレームを生産することに成功。 ボシュロム・オプティカルとなったそうです。
その後1926年にはあのサングラスの代名詞的存在”レイバン”を開発。 現在レイバンは売却されているので別会社。
そして1971年には現在一番知られているソフトコンタクトレンズを世界で初めて実用化に成功。 現在はコンタクトレンズをメインに事業をしているようですが、そんな世界的大企業も初めはロチェスターの小さなメガネ屋さんだったんですね。
そして、このロチェスターで創業した企業がもう1つ。 コピー機などで有名なゼロックス。 本社はコネチカットにあるのですが、1906年、この地で印刷紙や関連機器を製造する会社として始まりました。
”コピーして”と言うことを”ゼロックスして“と言っていたのは日米共通。 動詞にもなってしまう大企業。さて、カーネギー、ロックフェラーと並んで篤志家だったコダック創始者のジョージ・イーストマン。 音楽にも随分と思い入れがあったようで、現在アメリカでもトップ・レベルの音楽学校”イーストマン音楽学校”を創設しました。 このイーストマン・シアターではほぼ毎晩何かの演奏会が行われているようです。
昨夜は"Eastman Philharmonia"によるマーラーの交響曲第4番他のコンサートがあったのですが、入場料は無料。 誰でも見に来ることが出来ます。
写真では分かりにくいですが、天井にはかなり大きく豪勢なシャンデリア!
学生さんのオーケストラだし・・・と思って行ってみたのですが、まぁ驚きました! 会場のコダック・ホールの美しさ、音響の良さもさることながら、オーケストラもプロ同様。 あまり得意ではないマーラーも素晴らしい演奏で聴かせてくれました。 コンサートマスターも素晴らしかった!
いやぁ・・・こんな演奏会が無料で、しかもお客さんも点々としか入っていないなんて本当に贅沢の極み! 自分がここに住んでいたら毎週聞きに来てるだろうなぁ・・・。
素晴らしいコンサートでした。
次の日の休みは街のちょっと外れにあるジョージ・イーストマンの邸宅へ。 ここは現在写真などの博物館になっています。
写真に関する展示室はたった2つしかないのですが、写真やフィルムに関しての歴史が簡潔に展示、説明してあります。
昔はこんなに大きな機材でフィルム撮影していたんですね。 コダック中心の展示と言うわけではありませんでした。 普段は写真のエキシビジョンなどもやっているようなのですが、きょうはな~んにも無かったです。
展示室を奥に進むと彼の邸宅に入ります。 大変豪勢な造りで、当時の写真と見比べながら見学。 ここはダイニング・ルーム。
ここはサン・ルームですが、彼はここで朝食など摂っていた様ですね。
イーストマンは農家の末っ子として生まれると、13の時に父、16の時には姉も失い、いつかは苦労して自分を育ててくれた母に孝行をすると誓っていた様です。
彼は生涯独身だったのですが、ビジネス仲間の奥さんとはプラトニックな関係を続けたそうです。 篤志家としての貢献は計り知れず、子供たちが大好きで、無料でカメラを配布したりもしたそうです。 大学、医療機関への寄付など、当時の1億ドルを超えたようです。
アフリカのサファリへも2度行ったそうで、彼の撃った大きなアフリカゾウの剥製もあります。 もともと象牙は一本しかなかったそうで、それは象の下に別で展示してあって、剥製の牙は木製だそうです。
この毛皮のチーターも彼が撃ったのでしょうか?
ベッド・ルームも日当たりが良くて気持ちよさそうだねぇ・・・。
エントランス・ホール。 まぁ、なかなか美しい建物でした。
さて、そんな大事業を起こして世間に多大な貢献をした彼ですが、晩年の2年間は体の不自由になる病気になり、車椅子の生活だったようです。 体の痛みと衰えで憂鬱になり、1932年"My friends, My work is done. Why wait?"(友よ、私の仕事は終わった。なぜ待つのか?)の遺書を残してピストルで自らの生涯に終止符を打ったそうです。
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