Friday, August 12, 2016

jerusalem / bethlehem エルサレム、ベツレヘム 観光

イスラエルに来てから数日が過ぎましたが、平穏な街の雰囲気に毎日驚いています。 これは、日本人がいつ大地震が来るかわからないけど、毎日普通に生活しているのと似た感覚なのでしょうか。。。
さて、ずーっと、ずーっと行きたいと思い続けてきていた聖地エルサレムへ、ついに足を運ぶことの出来る日がやって来ました。
少人数でゆっくりと訪ねたかったので、テルアビブからプライベート・ツアーを使って行って来ました。
車で1時間ちょっと、道中新しい高速道路や鉄道も建設されていて、数年後にはテルアビブとエルサレムは電車で30分で繋がるそうです。 これは経済の中心地のテルアビブと、首都エルサレムの距離を縮める役割があるようです。
さて、エルサレムの新市街を通過して旧市街へ到着しました。
新市街の建物も、旧市街と同じ石の外壁材が使われているのですが、これはイギリスの委任統治下に外観維持のために統一されたそうです。
さて、エルサレムに街が出来たのが紀元前30世紀というので、今から5000年も前の事。 紀元前1000年にはヘブライ王国が成立して、2代目のダビデ王がここエルサレムに都を建設しました。 このダビデ、数多くの宗教美術のモデルにもなり、旧約聖書にも登場しますが、イスラム教においても預言者という位置づけになっています。
そのダビデ王の後継者ソロモン王の時代に絶頂期を迎え、その死後エルサレムは分裂、ユダ王国の都となります。
エルサレムは周囲4キロの城壁に囲まれていて、8つの門があります。
これはジャファ・ゲートと呼ばれる門で、ここから街に入りました。
城壁の中に入ったとたん、いっぺんに異次元の世界に入り込んだように雰囲気が変わります。

城壁の内部は4つのエリアに分かれていて、”ユダヤ人地区””ムスリム地区””キリスト教徒地区””アルメニア人地区”があります。
まずは異国情緒溢れる細い路地を歩いて”岩のドーム”を目指します。
イスラエル兵によるセキュリティー・チェックを受けて出た先には”嘆きの壁”。
本やテレビなどでも何度も見てきたユダヤ教の聖地。
岩のドームへ入れる時間が限られているので、まずは先へ向かいます。
イスラム教の聖地”岩のドーム”へ向かうには、もう一つセキュリティー・チェックを受けて、この木の橋を渡って向かいます。

木の橋で嘆きの壁を越えるのですが、そこからは熱心に祈りを捧げる人たちの姿が見られます。
さて、神殿の丘へ上がって来ました。
ここはユダヤ教、キリスト教、イスラム教の共通の聖地なのですが、691年にイスラム教がモスクを築いてからは、この地はメッカ、メディナに次いで3番目に重要な聖地となっています。
もともとは紀元前10世紀にソロモン王がこの場所に神殿を建設、紀元前20年にはヘロデが神殿を拡張。 この宮殿の壁の一辺は500メートル近いのですが、その一部の露出している西側50メートルが嘆きの壁になっています。

この岩のドームはモスクではなくモニュメントなのですが、2000年以降はイスラム教徒以外は入ることが許されていません。
さて、なぜこの地がそれぞれの宗教にとって聖地なのかと言うと、この中には岩があるのですが、それは世界が創造された際の基礎石(エベン・シュティヤ)であるとされていて、世界の中心と言われています。 神が世界を創造したのが一体いつだったのかという議論はされていないようなのですが、正教会では紀元前5508年とされているそうです。
また、この場所はアブラハムが神からの試練(神がアブラハムに対して、老いてから授かった一人息子イサクを生贄に捧げるよう命じ、アブラハムは多くを語らず遂行、すべてを察したイサクは抵抗することなく父によって縛られ祭壇の上に乗せられます。 アブラハムがイサクの上に刃物を振り上げたとたん、神の使いが現れてその行為を止めます。)
この行為はユダヤ教、キリスト教、イスラム教徒から共通して讃えられています。
あと、この岩は預言者ムハンマドの”ミウラージュ(ムハンマドが大天使ガブリエルに伴われて天馬ブラークに乗って昇天、神アッラーフの御前に至る)”の起こった場所とされています。
これが内部にある岩だそうです。(ウィキペディアより)
ここにはキリストも何度も訪れていて、宮清め(商売をしていた両替商をイエスが怒って蹴散らした)が起こったのもこの場所です。
岩のドームの反対側にあるのがアル・アクサー寺院。 建物は715年に建設され、その後崩壊と改修を繰り返して、今ある形にあったのが1066年。


ここにはイスラエル軍が何人も警備をしていて、ユダヤ教、キリスト教の人達がここで祈りを捧げることを警戒しています。 カバンから聖書を取り出すことすら出来ません。
これだけでもこの地がどれだけ宗教的、歴史的に複雑であるかが分かります。
さて、ムスリム地区を抜けて嘆きの壁へ向かいます。
再びセキュリティー・チェックを通って嘆きの壁へやって来ました。
先ほども触れた通り、ヘロデ王の神殿はユダヤ教にとっては最も神聖な建物でした。
壁の高さは19メートル、地下に埋まっている部分も含めると32メートルになります。 石積みは45段で、地上7段目まではヘロデ王の時代のものだそうです。
紀元2世紀に起こったユダヤ戦争の後、ユダヤ人のエルサレムの立ち入りが禁止され、4世紀以降には年に1日だけこの壁に近づくことが許されます。 1967年、第三次中東戦争の後、ユダヤ人のエルサレムへの立ち入りが許されました。 この間の1900年間、ユダヤ人は自由に聖地に近づくことを許されていなかったのです。 が、それでもお祈りの出来るのはこの壁まで。 岩のドームはイスラム教のものです。
壁の大半は男性用の祈りの場で、女性は別の場所になります。
壁へ近づくにはキッパと呼ばれる帽子を頭に乗せます。
入り口には紙が置いてあるのですが、この紙に願い事を書いて壁の間に挟むと願いが天に届けられるそうです。

今の平穏も、敵対と緊張の間のひと時に過ぎないのでしょうか。。。

嘆きの壁の奥に入るとアーチが見えるのですが、これは当時の水道橋だそうです。 ここには一部床の透けている部分があって、そこから地下部分の石積みを見ることも出来ます。

ここからはイエス・キリストの足取りを辿ります。
ピラトの官邸で行われた裁判で有罪となってからゴルゴダの丘で磔刑になるまでのその道は、ヴィア・ドロローサ(悲しみの道)と呼ばれていて、今でも歩くことができます(イエスの時代の道は数メートル下だそうです)。
この教会が鞭打ちの教会。 ピラトの官邸のすぐ近くで、ここでイエスは鞭に打たれ、いばらの冠をかぶせられ、自ら十字架を背負って歩かされます。

祭壇の天井はいばらの冠。



イエスはこの道をゴルゴダの丘に向かって進みます。
イエスが十字架の重みに耐えられず、初めにつまずいたのがこの場所。
ここでその場に居合わせたシモンという男が無理やり十字架を背負わされます。
イエスが手をついたといわれる石ですが、この通りは当時の通りよりも上に造られているので、あくまで伝承ということらしいです。

ここは、ベロニカという女性がイエスの顔を絹のハンカチで拭った場所です。
この布は非公開ながらも今でもヴァチカンのサン・ピエトロ大聖堂に保管されているそうです。
先に見えるドームが”聖墳墓教会”でゴルゴダの丘。 この場所でイエスは三度目につまづきます。
聖墳墓教会は様々な宗派に分割されています。 こちらはエチオピア正教。 まさにアフリカな雰囲気です。
描かれている絵はソロモン王を訪ねるシバの女王。
シバ国の所在については2つの有力な説があるそうなのですが、エチオピアの説によると、二人の間に生まれた子ネブカドネザルはエチオピア帝国の始祖ネメリク一世に当たるそうです。
エルサレムとエチオピアを繋ぐエピソードのようです。
中ではエチオピア正教徒が祈りを捧げています。
迷路のような細い道を抜けて内部へ。
2階へ上がる道すがら見えるのが、イエスの亡骸を布に包んだ石の台。
教会はゴルゴダの丘の上に建てられているので、二階部分が丘の頂上。
このモザイク画の前でイエスは十字架にくぎ付けにされます。
そして祭壇のある場所が十字架の建てられた場所。
祭壇の下には穴が開いていて、そこから建てられた場所を直接触ってお祈りすることが出来ます。
祭壇の両側がガラス張りになっているのですが、この場所が岩山の上だということがよく分かります。

十字架の建てられたすぐ横のこの場所で、マリアはイエスの亡骸を受け取ったとされています。
ピエタの場所です。
銀のプレートがはめられていて、そこから岩を触ることが出来ます。


アブラハムとイサクを描いたモザイク。
イエスは2人の罪人と共に十字架にかけられましたが、十字架にかけられて息を引き取るまでには2日ほど苦しんだそうです。 ユダヤの民は安息日に死体が十字架にかかっていることを嫌って、まだ息のあった2人の男の足を折ってショック死させたそうなのですが、イエスはすでに息を引き取っていたそうです。 その際にイエスの死を確認するために兵士がわき腹を槍で刺したとされています。
イエスの亡骸を運んで布(聖骸布)に包みます。
亡骸を包んだ場所がここ。
香油が垂らしてあるので、両手をついてお祈りをすると手がいい匂いになりました。
そしてこの聖墳墓教会の中で最も重要になるのがここ、イエスの廟。
大変長い行列が出来ていたのですが、ガイドさんが司祭さんと交渉してくれて、ラインをスキップして入れて下さいました。 ラインに並んでいたら時間が足りなくなったので、イエスに呼んで頂けたかな。
狭い廟の中に入って、そのもう一つ奥の小部屋がイエスの墓所。
イエス・キリストのお墓。 もともと洞窟であったこの場所にイエスは埋葬されます。
イエスは三日後に復活し、その後昇天したとあるので、こちらには亡骸はないということになりますね。
廟の正面はギリシャ正教の聖堂です。

このイエスの墓と祭壇を結ぶ線の中心がキリスト教における世界の中心とされているそうで、手をかざしている場所が世界のお臍。 世界のエネルギーを感じる場所です。


黄金の岩のドームを眺めながらピタのランチ。 暑さと乾燥でのどが渇く。。。

ユダヤ人地区を抜けてシオンの丘に向かいます。

6世紀の地図にも描かれている東西に走るメインストリートの”カルド”。
ビザンティン時代に完成していて、十字軍の時代には一部が商店街になっていたそうです。
シオン・ゲートから城壁の外へ出るとシオンの丘になります。

ダビデ王の像。 ミケランジェロのそれとは随分違う見た目ですね。 ダビデは竪琴も巧みだったそうです。
そしてここがイエスによる”最後の晩餐”の行われた場所。

イエスはここでの夕食でユダの裏切りを予告、使徒達が自分の苦難に際して逃げ散ることも予告。また、ペトロが鶏が鳴くまでに三度イエスを拒むと預言します。
その後現在に至るまで継承されている”聖体礼儀”である、パンと葡萄酒を、自分の体と血として与えます。
そして、最後の晩餐の部屋のある建物の下がダビデ王のお墓になります。

先にも書いた通りダビデ王はイスラエルに都を築いた人。
羊飼いだったダビデはベツレヘムに生まれますが、その後初代イスラエル王のサウルに仕えます。 当時イスラエルはペリシテ人との戦いを繰り返していましたが、そのペリシテ人で最強だったのがゴリアテという3メートル近かったという大男。
一対一で戦いをしろと挑発してくるゴリアテにダビデは対峙して、投石器で石を勢いよく放ちます。 石はゴリアテの額に当たってうつぶせに倒れます。
剣を持っていなかったダビデは、ゴリアテの剣を奪ってその首をはねます。
この出来事でペリシテ軍は大崩れ。 イスラエル軍が勝利します。 その後ダビデはサウルの側近となり、サウルの死後はその息子を破りイスラエル王となりました。
エルサレムに都をおいて統治した期間は33年。
これがダビデのお墓。 ユダヤ教の人々がお祈りをしています。
ちなみにイスラエルの国旗に描かれる”ダビデの星”ですが、その六芒星はダビデとは関係がないそうです。


城壁の高さが分かりますか? 石灰岩質なので白く眩いです。

オリーブの実がたわわに実っています。
正面に見えるのはジャファ・ゲートの横にあるダビデの塔。 中は博物館になっています。


丘の上からのエルサレムの眺め。 城壁を見ての通り、そんなに広大な街というわけではありません。
さて、ここからはキリスト誕生の街”ベツレヘム”へ向かいます。 ベツレヘムはエルサレムから10キロ程度の距離なのですが、ここはパレスチナ自治区になる為、写真のようなセキュリティー・ゲートを通ります。 行きも帰りもパスポートのチェックなどはありませんでしたが、イスラエル人のガイドさんはここまでしか入れず(パレスチナ自治区内で何か問題が起こっても保険も適用外になるそうです。。。)、途中でパレスチナ人運転する車に乗り換えます。 ということで、たとえエルサレムでタクシーに乗ってベツレヘムへ行こうと思っても行ってくれません。
自分の中でのパレスチナ問題は、随分と泥沼化したイメージで、ヨルダン川西岸やガザ地区などでロケット弾も撃ち込まれれば、混沌としたまま解決策を見出せてないという解釈だったのですが、この対立、とても長い歴史を持っていて、近代になって第一次世界大戦時に、戦費調達のため、イギリスがユダヤ人の豪商ロスチャイルド家から資金援助を受け、その後ユダヤ軍はイギリス軍の一員としてオスマン帝国と戦い、”パレスチナ”がイギリスの委任統治領となります。
その後ユダヤ人の入植が進み、それまで均衡の保てていたアラブ人との関係が悪化し始めます。最終的には西側諸国の利益追求の為に振り回されているわけですが、1948年にイスラエルは独立、崖っぷちに立たされたアラブ人は周辺のアラブ諸国と協力してパレスチナに侵攻。結果80万人というパレスチナ難民を生みます。 1989年にはアラファト議長はパレスチナの初代大統領に就任、パレスチナの解放運動に尽力します。2004年に亡くなるまでパレスチナの平和の為に働きますが、亡くなったその2004年からはイスラエルとの境には壁が築かれ始めます。 この壁のおかげで自爆テロなどは減ったようなのですが、西側主導のアラブの支配。。。すべての混乱の根源は某国の利益追求ですよね。。。
パレスチナに入るゲートにあったこのものものしい看板、”イスラエル市民の侵入を禁止する。生命の危険があり、イスラエルの法に違反する”。。。
かなりな急な坂を登ったり下りたりしたのち、ベツレヘムに入りました。
ベツレヘムのイメージといえば、クリスマス・ソングの歌詞で出てきたりと、温かく穏やかで、祝福と喜びに満ち溢れたもの。 実際に来てみると荒野の丘の上。
ベツレヘムの人口の20%はクリスチャンなそうですが、80%はムスリムということでしょうか、着いた時もこのイエスの生まれた”聖誕教会(降誕教会)”の前のメンジャー広場では、コーランが大音響で流れていました。
このイエスの生まれた地に教会が建てられたのは325年。 現在の教会は十字軍時代に修復されていて、外部からの攻撃に備えて要塞化しているそうです。
この十字架はエルサレムの十字架で、5つの十字架が組み合わされています。 これはイエスの体に打ち込まれた楔を象徴しているそうです。

現在も改修工事中。
床にはこのように美しいモザイクタイルが現存しているのですが、これは339年の聖堂の完成時のものだそうです。
当時ナザレに住んでいたマリアの元へ、大天使ガブリエルがやって来て受胎を告げます。
なぜ夫ヨセフとマリアがベツレヘムまで来たのかの詳細は、マタイの福音書には記載されていないそうなのですが、ルカの福音書には”住民登録”の為に来たと記されているそうです。
ベツレヘムの宿が混んでいたため、馬小屋で生まれたというのが通説ですが、正教会では洞窟で生まれたということになっているそうです。

祭壇の横から、地下洞窟だった場所に降りる階段があります。

ここがイエス・キリストの降誕した場所。
そこには銀のプレートがはめてあります。
その向かいの少し下がった場所がイエスのクリブを置いていたところ。
ベツレヘムはダビデ王の生誕の地でもあります。 そのため、イエスをダビデと繋げるためにここで生まれたことにしたという説もありますが、イエスの言う通り”信じる”ことが大切なのでしょう。
当時ローマの支配下であったエルサレムのヘロデ王は、救世主の誕生を恐れて2歳以下の幼児を虐殺します。 キリスト教の伝承において、この虐殺は誇大化して表現されていますが、当時のベツレヘムは人口300人程度。このことが史実であったとしても、せいぜい20~30人程だったとされています。

隣に新しく建てられているのはローマ・カトリックのフランシスコは修道院。
ここからはクリスマスの日のミサが全世界に放送されます。


ここの教会は神学者ヒエロニムス(340年頃ー420年頃)が聖書の翻訳を行った場所でもあります。
もともとはクロアチアで生まれ、382年、ローマ教皇ダマスス1世に重用されると全聖書のラテン語訳に取り掛かります。 2年後ダマスス1世が世を去ると、一路聖地エルサレムへやって来て、その後ベツレヘムのここの教会内部にある洞窟にこもって405年に完成させます。 このウルガータ訳聖書は、20世紀に入るまでカトリックのスタンダードであったそうです。
なお、この像の足元には頭蓋骨がありますが、彼にはローマの”パウラ”という婦人がそばにいて翻訳作業を協力したそうなのですが、彼女の死後、彼は彼女の骨をそばにおいて作業を続けたそうです。
ベツレヘムの風景。 羊もいたりして、なんとなく荒涼とした大地を放牧して歩く人々が目に浮かびます。
街の境目にそびえる”壁”。
エルサレムの人たちはずっと城壁の中で暮らしていました。 その城壁の門は日暮れと共に閉められ、日の出と共に開かれたそうです。 その意味合いとしては外部からの侵入者を遮るということと、夜に魔物的なものを外から入れないということもあったそうです。 近代になって人口が増え政府は新市街を建設、それでも人々は城壁の外での暮らしを嫌って移動しなかったそうです。 そこで住宅費を支援して無理やり壁の外へ人を移動させたそうなのですが、それでも夜になったら壁の中に戻っていたそうです。 ガイドの人は笑ってこのエピソードを教えてくれましたが、今イスラエルは国ごと壁で隔てようとしています。 
人は壁(見える壁、見えない壁)を作るものだとは思います。 個人と個人、集落と集落、国と国。
どのような生き方が幸せな生き方なのか、自分自身に置き換えて考えてしまいます。
日暮れ前には無事にテルアビブへ帰って来ました。
念願だったエルサレムの地に立ち、3000年の時を超えて当時の空気に触れ、イエス・キリストの足取りを辿り、今までは物語や絵画の中の世界でしかなかったものを肌で感じ、世界の人口の半数の信じるキリスト教とイスラム教、それとユダヤの民の祈りの思いに心揺れ動かされる1日でした。
今は胸の中を色々な感情が巡り巡っています。

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