Monday, October 5, 2020

kumano, kouyasan

今年帰国した際から母と行こうと話していた熊野と高野山。 コロナ騒動も多少落ち着きを見せ始めたことと、Go To Travelを活用して行って来ました。
この辺りに来るのは小学校の頃以来でしたが、自宅を出て5時間後にはここ”みたらい渓谷”へ到着。 案外近くて驚きました。





写真ではそのスケールが伝わりにくいですが、巨大な岩がごろごろとしていて、その間を清流が流れていて、なんとも風光明媚。
水に入っている人たちも見かけましたが、さすがにもう冷たいのでは??
みたらい渓谷があるのは天川村。 そう、あの天河神社こと”天河弁財天社”のある場所です。 内田康夫の浅見光彦シリーズ”天河伝説殺人事件”がヒットした時からいつかは訪れてみたいと思っていた場所。
厳島と琵琶湖の竹生島と並んで、日本三大弁財天だそうで、芸術、芸能の神様でもあります。
空海は3年の間大峰山(おおみねさん)で修業をしていましたが、その最大の行場がここ天河神社だったそうです。
天河神社に伝わり、天河伝説殺人事件でも登場するのが五十鈴(みすず)。 天宇受売命(あめのうずめのみこと)が天岩戸を開く際にこれを持って舞を舞ったとか。
ここに来たら絶対お守りで買って帰ろうと思っていたのですが、3000円近いその値段に長年の思いも打ち砕かれてしまいました。。
https://www.tenkawa-jinja.or.jp/isuzu


神社の隣にあるのが南北朝時代、南朝の行宮のあった場所。
神社のあった場所には皇居が47年間置かれたそうで、南朝にとっても大切な場所であったようです。
十津川にある”谷瀬のつり橋”。
小学校の頃家族みんなでゆらゆら揺れる橋をはしゃぎながら渡ったのを昨日のことのように覚えていますが、当時怖がっていた母も今回はすんなり往復。

橋のふもとで名物の串こんにゃくと、高菜のおむすびのような”めはり寿司”を頂きました。
途中温泉地温泉へ立ち寄ってお昼と足湯。
この日から2泊するのは”湯の峰温泉”。
ここは世界で唯一世界遺産にも登録されている、4世紀ころに発見された日本最古の温泉。



日本最古の共同浴場の”つぼ湯”。
歴代の皇族の熊野御幸の際には、熊野本宮大社に参拝前にここでお休みになってその名が知られたとか。 
”小栗判官と照手姫伝説”という話も残っていて、餓鬼となった小栗判官が49日で人に戻れたそうな。。
一人、または一組30分の時間制限で入ることが出来ます。

水を足しつつ入ってもかなり熱い。。。 30分あってもそんな長時間入れないでしょ。
宿のお風呂もだーれもいないしゆっくり入れました。
本来の予定では発心門王子から本宮大社を目指して歩いて、そのまま湯の峰温泉まで山越えをしようと思っていたのですが、前日に宿の方が”そのコースはただの山歩きなので、熊野古道をイメージするところを歩きたいなら那智大社へ向かう大門坂を歩きなさい”とのこと。 その予定にすれば車で熊野三山(熊野本宮大社、熊野速玉大社、熊野那智大社)全てを一日で巡ることが出来るので、予定を変更。
と、この日は朝から豪雨! こんな天気の中朝から歩く予定にしていなくてよかったです。




神武天皇を熊野から橿原まで案内したとされる八咫烏。
本宮大社から十津川へ歩いたところにあるのが”大斎原(おおゆらはら)”。
ここがもともと本宮大社のあった場所ですが、明治22年、近隣の山林の伐採が理由で十津川で大水害が発生、全て流されてしまったそうです。 その後現在の場所へ移動。 2000年には日本一高い大鳥居が造られたそうです。(ちなみに岡山にある最上稲荷の大鳥居は4番目の高さだとか)



元々の建物があった場所。
今は何もなくなっても、ここの方が神聖な空気が流れているように感じました。

横殴りの大雨でズボンもぐっしょり。。
”禊 1”
十津川沿いのくねくね道を、両の山から雨水が滝のように流れるのを縫うように抜け、熊野速玉大社へ。
ここでも豪雨。。
傘も意味がないくらいの大降りでした。。
ここは水の動きを神格化しているそうなので、まさにといった感じ。
”禊 2”
せっかく海沿いを走るので、お昼はお寿司屋さんへ。
熊野那智大社への参道”大門坂”。
この頃には激しさを極めた雨もほぼ上がり、濡れた階段が雰囲気があります。(帰り道の下りは滑って危険過ぎ)
往復している間すれ違ったのは管理をされている方一人のみ。

”実方院跡”。
熊野行幸は百十数回行われたそうで、上皇や法王が参拝されたときに宿泊されていた場所。
那智大社まで上がるとこの景色。 奥には那智の滝。



落差日本一の那智の滝。
普段の様子を知らないのでこんなものかと思っていましたが、午前中の豪雨で大変な水量になっていた模様。。
轟音と大迫力でした。
上まで上がったら暴風雨の様。
イグアスの滝をブラジル側から滝つぼ方面に歩いて行く感じを国内で再体験。
”禊 3”

さて3日目。
熊野を離れ山道を3時間余り、標高の高い山を越えて高野山に入りました。
金剛峯寺からもほど近い宿坊案内所の方は大変親切で、問題なく今夜宿を確保、その足で金剛峯寺へ。 周辺には無料駐車場も整備されていて大変便利!
週末でありながら高野山全体たいへん静かで、変な話、コロナのお陰で日本の観光地は昔の良い静けさを取り戻していて、もう二度とこんな状況はないであろう最高な状況。

金剛峯寺とはもともとは高野山全体をさす名前であったそうなのですが、現在は明治に入って豊臣秀吉の清巖寺と興山寺を合併して”金剛峯寺”と称されることになったとのこと。

金剛峰寺の主要な場所を巡ることのできる共通券が1500円で購入できて、大師教会では授戒を受けることもできます。
堂内の襖絵のある部屋などは撮影ができませんが、豊臣秀次の自刃させられた歴史的な”柳の間”や、皇族が登山された時に使用されていた”上壇の間”など、美しい部屋の数々があります。




恵果阿闍梨。


日本最大の石庭”蟠龍庭”。
読んで名のごとく龍がとぐろを巻く庭で、雌雄一対の龍が雲海の中で建物を守っているんだとか。
四国産の花崗岩と京都の白い砂か使われているそうです。





建物の裏手にあるのが空海の甥で弟子であった真然の廟。
9歳のころに空海を慕って出家、遣唐使にも入り唐を目指すも難破。筏で23日間も漂流し、乗船していて助かったのは真然含めて二人だったとか。
空海が入定する前に高野山を託され、金剛峰寺の復興と発展に力を尽くし、88歳に亡くなったそうです。
台所。



金剛峰寺を出て大師教会の手前にあるのが”赤地蔵”。
本当の赤ちゃんのような座り方と姿をした真っ赤なお地蔵様です。
高野山の正倉院といわれる”霊宝館”。
こちらには高野山に伝わる秘宝の数々が保管されているのですが、そのすべてが展示してあるわけではありません。
自分は大変幸運なことに、2017年に仙台で行われた東日本大震災の復興祈念の空海展に足を運ぶことができたので、高野山のお坊さんでも一生のうちに見られることがあるかないかと言われる大変貴重な品々を見ることができました。
以前放送のあったNHKのブラブラする番組でも、高野山に住んで数十年、初めて空海筆の”聾瞽指帰”見られたとか。。 本当に仙台での展示会は貴重な機会でした。
こちらの常設展でも快慶作の彫刻の数々や、国宝の書、高野山の歴史にまつわる資料が展示してあって素晴らしいです。
初秋のような風が吹いていて大変気持ちがよく、人も少なくて最高です。
昼食は金堂の前にある”桜池院”の成慶院の座敷で精進料理。 静かに座って食事ができて気持ちがよかったです。
さて、金堂や根本大塔のある檀上伽藍へ。
空海が在世中にはあったのはこの部分のみで、建物の大部分は近世の再建です。
こちらの壮麗な門も817年に創建されたものの1843年に焼失。つい5年前の2015年に再建されたものです。
こちらの金堂は空海が819年から建設を始めましたが、7代目の本堂も昭和元年に創建当時から伝わった本尊と共に焼失。 現在は高村光雲作の本尊が納められているそうです。



こちらは経を収める六角の蔵で、下部のハンドルを押して一周すれば、一切経を一通り読んだことになるそうで、大きなマニ車と言ったところ。

こちらが”三鈷の松”。
空海は中国で恵果阿闍梨から密教のすべてを会得すると、恵果阿闍梨からお祈りに必要な道具も受け取りますが、その中の三鈷杵(空海が像や絵の中で握っている法具)を密教を広める地を見つけるため長江の浜から投げますが、それが引っ掛かったのがなんとこの松!とは言ってもこの松は7代目。 もしもの時の為に同じ株から株分けをして維持しているんだとか。
スリランカに残る仏陀の悟りを開いた菩提樹の話にも通じそうですが、この三鈷の松の葉は三つ又で、お守りにもなるそうです。 もちろん探して持って帰りました!
伽藍の中心にあるのが創建当初にもあったこの根本大塔。
曼荼羅を立体的に表したもので、京都の東寺と同じような意味合いですね。
昭和12年の再建なので、大変色鮮やかです。
周りの豪華な建物の為にあまり目立たず建っているのが、高野山でも最重要な聖域とされるお堂”御影堂”。
国宝の”不動堂”。
有名な運慶作の”八大童子”の奉安されていたお堂(現在は霊宝館で保管ー展示はされていません)。
この八大童子には上野で開催された運慶展でも、仙台での空海展でも会いましたが、なんとも愛くるしい表情と姿が印象的です。
壇上伽藍から延びるのがこの”蛇腹路”。
空海が”東西に龍が臥せるがごとく”とおっしゃったそうです。
ちょうど金剛峰寺の裏あたりにあるのがこちらの”徳川家霊台”。
1664年に家光によって建立された霊舎(おたまや)で、家康のものと秀忠の二棟が並んでいます。
東照宮を彷彿とさせる絢爛な建物。
当初予約させてもらっていたお寺とは縁がなく、急遽こちらの”清浄心院(しょうじょうしんいん)”の宿坊へ今夜はお世話になることになりましたが、こちらも大変すばらしいお寺で、お坊さんもスタッフの方たちも気持ちの良い方たちばかりで、心落ち着くよい時間を過ごさせてもらいました。



こちらのお堂は落成したばかりだそうで、こちらでは毎日1時から護摩行が行われていて、だれでも自由に参加することが出来ます。
と、夜の精進料理が供されたお部屋はお殿様気分。。 別な面の襖絵も素敵で、なんだかもったいないような一室です。
精進料理とは言いつつも、料理旅館がごとく豪勢。 
もちろん高野豆腐も入っていて、お米もおいしいし、美味でした!


ここで料理されているわけではありませんが、ここのお寺の台所も随分と大きいものです。金剛峰寺の台所の参考にされたとか。
と、ここで気になるのがお寺の中にしめ縄や神棚。 よく考えれば弘法大師をこの地へ導いたのも狩場明神。 日本の神道と仏教の融合の不思議さ。
この清浄心院は奥の院へ一番近いお寺で、奥の院へは門限などもあるのかと思っていたのですが、いつでも参拝は可能とのこと。 夕食は5時半と早いので、そのまま奥の院へ散歩。
所々足元の見えづらい場所もありますが、無数の慰霊碑や墓石に囲まれてはいますが、まったく邪気や念といった空気がなく、常夜灯もついているので薄気味悪さは全くないです。
数組夜のガイド・ツアーの人たちとすれ違った以外はこの通り誰もいません。
この”御廟橋”の先は奥の院への聖域なので、写真などは禁止。
先の”燈籠堂”は閉まっていましたが、その奥の”弘法大師御廟”へはお参りすることが出来ます。 誰一人いない中、空海さんと対峙することが出来ます。

お寺へ帰ってきたのは8時頃だったと思いますが、辺りはすでにしーんと静まり返っています。 お風呂もヒノキの広い湯船で、一人での~んびり。
次の日の朝、お勤めは6時半から出、こちらの部屋でありました。 お経の音も心地よく、心静かな時間でした。
こちらの部屋には夏目漱石や岩崎弥太郎のお位牌も奉ってあって、かの上杉家も檀家さんで、奥の院の上杉謙信霊屋もこちらのお寺のものです。
そして隣の部屋には運慶作の阿弥陀様。

朝のこの時間は間近で拝ませて頂けます。
この隣の部屋には平安時代の不動明王も安置してあります。
写真の通り奥の院のすぐ入り口。
夜には供養塔など詳しく見られなかったので、改めて奥の院へ。
ここでは改めてどれが誰の供養塔かは書きませんが、名だたる大名家から大企業まで、無数の供養塔やお墓が林立しています。
まさにエルサレムのオリーブの丘に並ぶ、最後の審判を待つ数限りないお墓と同じですね。 
57億7000万年後に弥勒菩薩に救済してもらうのを弘法大師のお膝元で待つ人たち。





















再び奥の院へ。
燈籠堂には無数の燈籠に明かりが灯っていますが、中には白河上皇が献じた明かりも燃え続けていて、1000年もの時を超えていることになります。
朝の6時と10時半には弘法大師へお食事が届けられます。
HNKのブラブラする番組でも紹介されていましたが、もちろんすべて精進料理でありながら、パスタなんかも出されるそうで、空海さんのお口にも合うのかな?
13時には清浄心院へ戻って護摩行。

帰路の途中寄ったのが”丹生都比売神社(にうつひめじんじゃ)”。
弘法大師が高野山へ入る際、白と黒の犬を連れた狩場明神に案内されたことになっていますが、その場所は丹生都比売神社の神領であったとのこと。 この狩場明神と丹生都比売神の関係性がいまいちつかめず。。。

高野山へ参拝する際にはこちらへもお参りをしてから行くのが通常の習わしだそうで、高野山からお坊さんたちもお参りに来るそうです。

”慈尊院”。
空海が高野山を開いた際、その表玄関として伽藍を創建して寺務所である政所を置きます。
82歳になった空海の母は、空海に会うべく讃岐を出ますが、高野山は女人禁制である為この政所に滞在します。 空海は母に会う為、月に九度20キロの道のりを往復したそうで、この辺りが九度山と呼ばれる様になったそうです。
一年後の835年に空海の母は亡くなりますが、篤く弥勒仏を信仰していたそうで、空海はその弥勒仏の霊夢を見たそうで、ここにそのお堂と自作の弥勒仏を祀ったそうです。
が、こちらの国宝(秘仏)の弥勒仏座像は学術調査では892年の作だそうです。
女人高野と呼ばれています。
この慈尊院から延びる長い石段を上がるとあるのが”丹生官省符神社(にうかんしょうぶじんじゃ)”ですが、その途中にあるのがこの180町石。 慈尊院本堂を0として高野山の根本大塔までが22キロ、その道中に180の町石が置かれています。
階段を上がりきると”丹生官省符神社”。
空海は狩場明神と母である丹生都比売大神をこの地に祀ったそうです。
境内には狩場明神と空海の絵も。

九度山の道の駅で柿と早生みかんを買って帰路へ。
帰りも途中まで下道を通りましたが、案外早く到着。 高野山は遠いお山ではないことが分かりました。

1 comment:

Anonymous said...

wish to visit someday .
anis.