しばらく振りにドイツへ戻って来ました。
今週は初めてのライプツィヒ。 ここ二週間が忙しかっただけに、今週のお休みは救われるぅ。
ということで、休み初日は数年振りにヨーロッパ陶磁器の原点マイセンへ。
ライプツィヒからは1時間半ほどで到着。ミュージアムの入り口の双剣マークを見るだけでもテンションが上がります。
無数の花を衣装にあしらった巨大フィギュリン。 制作の手間を考えたら気が遠くなりそう。。
以前のブログにも見たような写真が登場しているとは思いますが、今回も制作のデモンストレーションを見学。
ろくろで粘土を回して型に入れて成型。
窯に入れることによって6分の1が縮小。
下絵は、穴の開いた金型(1番)に炭の粉を落として(2番)、その後絵付けをします(3番)。 乾燥した粘土がすぐに水分を吸収するので失敗は出来ません。
そのあと釉をかけて(4番)焼きます(5番)。
ミュージアムにはアウトレットが併設されていて、市価の2割引き、ものによっては半額で販売されています。
やはりお隣のカフェでお茶は必須。 マイセンの器でおいしく頂きました。 ケーキにもカプチーノにも双剣マーク。
工場近くのアンティーク・ショップへふらりと立ち寄ってみると。。。
新旧のマイセンが信じられない値段で並んでいます。。。 わぁぁぁぁぁぁ!!!
プレートなどずら~っと重ねられていてよりどり一枚10ユーロ。 普通は手の出ない絵付けの器も破格値! 7,8割引きなんてのもいっぱい。
100年ほど昔のカップとソーサーも味があってとても素敵。 絶対手に入れることはないと思っていたブルーオーキッドのティーポットまで買ってしまった。。。
戦利品は後ほど紹介。
前回は訪ねることのなかったアルブレヒト城へ。
当時、ヨーロッパでは未だに中国磁器のような白磁を焼く技術がありませんでした。 その為海を渡って輸入された陶磁器は大変高価で貴重なものでした。 そこでマイセンは技術者を集め、ドレスデンで研究。 1709年、錬金術師ベドガーがついに白磁の製作に成功します。
1710年にはドレスデンに工場が出来ますが、その数か月後にはここマイセンのアルブレヒト城内に工場が移され、その製造方法は厳重に保持されます。
ベドガーは37歳で亡くなるまで幽閉を解かれることはなかったそうです。
城の丘の中心にある、1250年に建設の始まったマイセン大聖堂。
さて、城内へ。内部は美しく修復もされていて、大変華やか。 お城の建設は1470年まで遡ります。
陶磁器の製作の様子の展示階。
当時、1700年頃使っていた道具の数々。
2004年に地中30センチくらいの場所から出てきた、1730年から1750年くらいに制作された磁器の破片の数々。
1754年頃、制作のモデルとして使われていたサイ。 この頃にはすでにマイセンの造形美が完成しているように見えます。
当時の窯の設計図。18世紀中期の作品。
ブルーオニオンはマイセンのトレードマークですが、1739年にはこの図柄が完成しています。 名前は”オニオン”ですが、もちろんこれは玉ねぎではなく、柘榴が玉ねぎと誤認されたために付いた呼び名です。
現在この図柄は50社ほどに使われているそうなのですが、これは19世紀末に財政危機の為に使用権が売却されたことによるそうです。
こちらも18世紀中期の作品。
1765年のカップとソーサー。 白磁の製作に成功してから半世紀でこの完成度。 それまで白磁は東洋からの高級輸入品でしかなかったのに、すでにヨーロッパの芸術作品として出来上がっています。
アルブレヒト城の全景。
お城からエルベ川を眺めた景色。
マイセン大聖堂の中へ。
祭壇にあるキリストの像ももちろんマイセンでしょうか。
本当はドレスデンまで足を延ばそうかとも思っていたのですが、マイセンだけで一日使ったので今日は帰宅。
こちらのブルーオニオンは双剣のマークが1850年から1923年まで使用されていたもので、どの時代のものかは分かりませんが、100年の年を経ているだけの味わいがあります。
祭壇にあるキリストの像ももちろんマイセンでしょうか。
本当はドレスデンまで足を延ばそうかとも思っていたのですが、マイセンだけで一日使ったので今日は帰宅。
こちらのブルーオニオンは双剣のマークが1850年から1923年まで使用されていたもので、どの時代のものかは分かりませんが、100年の年を経ているだけの味わいがあります。
マークにスクラッチがあるものは正規価格では売られないノですが、自分はそういったものの方が個性があって好き。
いつの物かは分かりませんが、このフレームも端っこに青の点が付いていたりしてとても個性的。
こんな見た事のない魚のペンダントトップ的なものも。 お店の人も珍しいものだよとの事。
いつの物かは分かりませんが、このフレームも端っこに青の点が付いていたりしてとても個性的。
こんな見た事のない魚のペンダントトップ的なものも。 お店の人も珍しいものだよとの事。
ここは昔は文化の発祥の地で、多くの文化人の集い、バッハが活躍し、メンデルスゾーンの暮らした街です。
ゲヴァントハウスのホールから歩いて五分ほどの所にあるのが、メンデルスゾーンが暮らし、その生涯を終えた家。
メンデルスゾーンは大変裕福なユダヤ系の家庭に育ち、幼少の頃からバッハに親しみ、音楽教育、文化教育を受けます。
15歳でフルオーケストラを用いた交響曲第1番を作曲、"真夏の夜の夢(序曲)"は17歳のときの作品というから、その才能は凄いですね。
演奏会でバッハの作品を掘り起こし、それまで”活躍する息子たちの父”程度の認識だったバッハを世間に広めました。
この美しい木の階段は1845年のもの。 メンデルスゾーン本人もこの階段を上り下りしてたんですね。 靴で歩くのが申し訳ない。。
リビングルーム。 調度品は当時の様子のままに再現してあります。
作曲も行っていた部屋。
演奏会でバッハの作品を掘り起こし、それまで”活躍する息子たちの父”程度の認識だったバッハを世間に広めました。
この美しい木の階段は1845年のもの。 メンデルスゾーン本人もこの階段を上り下りしてたんですね。 靴で歩くのが申し訳ない。。
リビングルーム。 調度品は当時の様子のままに再現してあります。
作曲も行っていた部屋。
壁には彼自身の描いた絵が飾られています。
キャビネットの上にはバッハの胸像。
メンデルスゾーン自筆の手紙。
こちらは自筆の譜面。
コンサートサロンもあります。
床材も当時のままだそうです。
これらは彼の描いた水彩画の数々。
キャビネットの上にはバッハの胸像。
メンデルスゾーン自筆の手紙。
こちらは自筆の譜面。
コンサートサロンもあります。
床材も当時のままだそうです。
これらは彼の描いた水彩画の数々。
とっても情景が美しく描かれていて、芸術家としての深い才能がうかがえます。
これらは亡くなるのと同年、1847年にスイスへ旅行した際にスケッチして描いたものです。1847年11月4日、廊下の奥の窓の無いこの一角で、メンデルスゾーンは38歳のその短い生涯を終えます。
半年前に亡くなった姉の死に苦しみ、神経症が悪化、発作も重なり、最期はくも膜下出血だったそうです。 最後の言葉は”疲れたよ、ひどく疲れた。”だったそうです。
彼のデスマスク。
遺髪。
下の階にはアーガイブなどがあるのですが、ここの部屋はなかなかハイテクで、何本ものスピーカーがオーケストラの楽器ごとに分かれたり、コーラスに分かれたりして、いくつかのメンデルスゾーンの曲を聴くことが出来ます。 部屋の色、楽器の編成や音量なども変えることが出来、自分でオーケストラを指揮することも出来ます。 ミュージアムには自分しかいなかったのでしばらくの間遊んでいました。
ここがかのゲヴァントハウス。 むか~しゲヴァントハウスのバッハオーケストラを日本で聞いた覚えが。。。
ゲヴァントハウスは1743年に、世界で初めて市民による自主経営のオーケストラとして発足しました。
メンデルスゾーンがカペルマイスターに就任したころに黄金期を迎えたそうです。 ベートーヴェンのピアノ協奏曲”皇帝”、シューベルト、メンデルスゾーンの”ヴァイオリン協奏曲”、ブラームス、シューマンの交響曲”春”など著名作曲家の初演も行っていてます。
1981年に現在の新しいコンサートホールが出来ています。
入り口のホールには壮大な天井画。
ここがバッハとの縁の深いトーマス教会。
1908年に制作された大バッハ先生の堂々たる銅像。
創建は1212年で、同時期に創設された少年合唱団は現在でも活動しています。
1539年にはマルティン・ルターが説教を行い、その後はプロテスタントのルター派の教会となっています。
バッハは1723年から亡くなる1750年まで教会音楽監督を務め、ミサの為に数々の曲を作曲しました。 1727年には”マタイ受難曲”の初演も行われました。
音楽監督の仕事は多忙だったそうで、オルガンの演奏、作曲、少年合唱団の指導、ミサだのお葬式などでの音楽の演奏まで仕事の範囲だったそうです。
バッハのお墓は別の場所にありましたが、第二次世界大戦の空爆を受けたため、ここの内陣に安置されました。
メンデルスゾーンのステンドグラス。
そのちょっと横にはバッハ先生。
教会の横にはバッハ・ミュージアムがあります。
ここでは代々音楽一家出会ったバッハ家の紹介、J.S.バッハ(1685~1750)の生涯について紹介してあります。
バッハはいくつものパイプオルガンを修理、制作していったそうなのですが、現存しているものはほとんどないそうです。
18世紀の楽器の数々。
バッハ直筆の譜面なども展示してありますが、ここは紙がデリケートな為撮影禁止。
トーマス教会の前にあるのがこのメンデルスゾーンの銅像。
メンデルスゾーンはユダヤ人であったが為に、その後攻撃対象となります。 ワーグナーも反ユダヤ論文の中でメンデルスゾーンを蔑み、20世紀に入るとナチスは演奏も禁止します。
1892年にこの銅像がゲヴァントハウスの前に建てられますが、1936年にナチスによって撤去されます。2008年に生誕200周年を記念して再建されますが、素晴らしいものを素晴らしいと評価できない国や時代というものほど悲しいものはないですね。
ここはドイツ最古のカフェ”Coffe Baum"。
通商都市として栄えていたライプツィヒには、パリに次いでコーヒー店がオープンします。
1711年からコーヒーが提供されていて、ザクセン選帝侯、バッハ、ゲーテ、ナポレオン、シューマン、リスト、ワーグナーと、ここで集っていた人達の名前がすごい。 シューマンはここで音楽談義に花を咲かせていたそうです。
3,4階はコーヒー博物館となっていますが、床や壁はひずんで斜めになっていたりして、とても古い建物感が出ています。
ここが街の中心マルクト広場。 この旧市庁舎は1557年のルネッサンス建築。
中は博物館となっていて見学することが出来ます。 っていうか、平日のせいか、どこに行ってもガラガラ。。。
ここの部屋は政務室で、1723年5月には、バッハがトーマス教会音楽監督の契約書に署名しました。 その時使用した円卓は今でもそのまま展示してあります。
1746年に描かれたバッハの肖像画で、これが世界で唯一バッハ自身の姿であると証明されている絵になります。
バッハ自身の署名のある領収書。
大変貴重なものだそうです。
隣の部屋にあるのがルートヴィッヒがワーグナーに贈ったピアノ。
ワーグナーはライプツィヒに生まれ、ライプツィヒ大学に学びました。
メンデルスゾーンの肖像画はなんだか端っこの方に展示してあって、あれ?これがオリジナル??と言った感じでした。
古い雰囲気のいいカフェが多く、お茶ブレイクの場所には事欠きません。
ニコライ教会は1165年創建の市内最古の教会。
バッハはここで”クリスマス・オラトリオ”などの初演を行いました。
1989年にはここで行われた集会きっかけに東ドイツ平和革命の口火が切られ、ベルリンの壁の崩壊と、東西ドイツ統一へと進んでいきます。
小さなバッハの胸像も。
街中には大きなアーケードもあるのですが、そこはかつて見本市の開かれていたところ。
国際的な見本市”メッセ”は、1895年に初めてライプツィッヒで開かれて、マイセンやシュタイフもここから世界的なブランドになっていったそうです。
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