ブラジルを発って、ドイツを経由して15時間のフライトの後、3度目のポーランド、初めてのワルシャワへやって来ました。 会社に頼んで、ワルシャワ経由で日本行き、10日のレイオーバーのチケットを手配してもらったので、タダ旅行! フライトはタダだとしても、それだけ頑張って働いたんだから、これくらいしてもらってもバチはあたらないよねぇ・・・。
この重々しい建物は、もちろんソビエトによる支配下でスターリンによって建てられた文化科学宮殿と呼ばれる建物。 ソビエトの力の象徴で、社会主義体制崩壊後もソビエトの置き土産的に嫌悪されているのが実情のようです。 平和な時代に見ても威圧感があります・・・。
このアパート、キッチンも洗濯機もあるし、普通のアパートなので、この素敵な建物の扉を開けて入るのがなんともいい感じ。 難はと言えば,古い建物なのでエレベーターがない。。。
こんな所に10日間も住むことが出来るなんて 幸せ~っ!
まず、ワルシャワへ来たら、その悲しい歴史に目を向けて勉強することから。
蜂起したころは、ドイツ軍は劣勢であったものの、ワルシャワの駐屯軍は国内軍を圧倒するだけの豊富な軍事物資を所持していたために 、わずかなドイツ軍の兵舎などを占領したのみにとどまったそうです。 即日報告を受けたヒトラーは、ソ連側が国内軍を支援しないと判断して、蜂起した国民軍の弾圧とワルシャワの徹底した破壊を命じます。
国民軍は劣勢のまま、銃などは数人に1つといった状態だったそうで,軍服もドイツ軍から奪ったものを着た為、このワッペンを付けて区別をしたそうです。
ソ連の軍隊は川の反対側にいたにも関わらず、国内軍に手出しをすることなく静観。 ソビエトの手口ははじめから分かっていたようなものですね・・・。
蜂起から2ヵ月後の9月末には国内軍は壊滅。 ドイツ軍による懲罰的攻撃によって、ワルシャワは徹底した破壊を受け、蜂起参加者はテロリストとされ、レジスタンス、市民を合わせて22万人が戦死もしくは処刑。 イギリス政府からの警告で、やっと処刑も終わり、10月2日に降伏するに至ります。
その後70万人の市民は追放、ソ連は翌年1月になって、力をなくしたドイツ軍に進撃を再開。 ワルシャワを占領します。
姑息としか思えない方法でワルシャワ市民を巻き込み、我が手を汚すことを最小限にワルシャワを占領したソビエト。 時代の流れに翻弄されて失われた多すぎる命。 更地になるほどに破壊された美しい街。
驚くことに、国民軍の様子はフィルムによって保存されていて、博物館でも視聴出来ます。
昨今、日本も怪しい方向へ国が動こうとしています。 過去を見れば、自分たちがどのような世界を創るべきかは自ずから分かるはず。
日本は同じ過ちを繰り返すのですか? 原発もこのままでいいのですか?
蜂起した人たちの名前の刻まれた碑。 この長い碑の意味が、日本政府には伝わらないのでしょうか・・・
碑の後ろには美しいバラが咲き乱れます。
美しく咲くバラの後ろには燃え上がる街の写真。
街に今も残るゲットーの壁の跡。
ドイツ占領下でゲットーが建設され、市の2.4%が壁で覆われ、市の人口の30%もあったユダヤ人44.5万人が収容されます。 一人当たりに与えられた面積はたった7.55平米。
ゲットーの状況は悲惨で、1942年に各地へ移送させられる以前に、すでに病気や飢えで8.3万人の命が奪われました。 移送後の惨状はよく知られている通り。
居住地区跡を示す表示。
ワルシャワ蜂起とゲットーの様子はノンフィクション映画”戦場のピアニスト”でも描かれています。
辛いのは分かっていながら、今日もう一度映画を見ましたが、街を歩いた後だったので、余りにも生々しく、この壁の内と外での生活を思うと苦しくなります。 終盤でドイツ人将校に発見され、その前でポーランドを代表する大作曲家、ショパンのバラード第1番を演奏するシーン。 死をも覚悟したであろうシュピルマンの、ポーランド人としての誇りと市民の痛み、苦しみをピアノに向け、ドイツ人将校も敵味方関係のない、終戦間近の焦燥感を味わうシーン。 結果として、敵であろうと、味方であろうと、勝とうが負けようが、戦争が生むものは悲しみであって、人の幸せとは正反対にあるものです。
ワルシャワの町を歩くと、その空き地の多さと広々とした風景に違和感を感じます。
この重々しい建物は、もちろんソビエトによる支配下でスターリンによって建てられた文化科学宮殿と呼ばれる建物。 ソビエトの力の象徴で、社会主義体制崩壊後もソビエトの置き土産的に嫌悪されているのが実情のようです。 平和な時代に見ても威圧感があります・・・。
このアパート、キッチンも洗濯機もあるし、普通のアパートなので、この素敵な建物の扉を開けて入るのがなんともいい感じ。 難はと言えば,古い建物なのでエレベーターがない。。。
こんな所に10日間も住むことが出来るなんて 幸せ~っ!
まず、ワルシャワへ来たら、その悲しい歴史に目を向けて勉強することから。
ここはワルシャワ蜂起博物館。 ワルシャワ蜂起とは,1944年の8月1日に 、ドイツ占領下にあったワルシャワ市民が蜂起して立ち向かったもの。 最終的に15万から20万の市民の命が失われ、街は徹底的に破壊され、70万人がワルシャワを追放されました。
1939年、ポーランドはドイツとソビエトによって侵略され、国が消滅します。 ドイツの占領下でのワルシャワ市民は悲惨な生活を強いられ、ソビエトによって煽られる形でポーランドの国民軍は蜂起します。 そこまで市民感情はギリギリの状態だったようで、起こるべくして起こったというところでしょうか。
蜂起したころは、ドイツ軍は劣勢であったものの、ワルシャワの駐屯軍は国内軍を圧倒するだけの豊富な軍事物資を所持していたために 、わずかなドイツ軍の兵舎などを占領したのみにとどまったそうです。 即日報告を受けたヒトラーは、ソ連側が国内軍を支援しないと判断して、蜂起した国民軍の弾圧とワルシャワの徹底した破壊を命じます。
国民軍は劣勢のまま、銃などは数人に1つといった状態だったそうで,軍服もドイツ軍から奪ったものを着た為、このワッペンを付けて区別をしたそうです。
ソ連の軍隊は川の反対側にいたにも関わらず、国内軍に手出しをすることなく静観。 ソビエトの手口ははじめから分かっていたようなものですね・・・。
蜂起から2ヵ月後の9月末には国内軍は壊滅。 ドイツ軍による懲罰的攻撃によって、ワルシャワは徹底した破壊を受け、蜂起参加者はテロリストとされ、レジスタンス、市民を合わせて22万人が戦死もしくは処刑。 イギリス政府からの警告で、やっと処刑も終わり、10月2日に降伏するに至ります。
その後70万人の市民は追放、ソ連は翌年1月になって、力をなくしたドイツ軍に進撃を再開。 ワルシャワを占領します。
姑息としか思えない方法でワルシャワ市民を巻き込み、我が手を汚すことを最小限にワルシャワを占領したソビエト。 時代の流れに翻弄されて失われた多すぎる命。 更地になるほどに破壊された美しい街。
驚くことに、国民軍の様子はフィルムによって保存されていて、博物館でも視聴出来ます。
昨今、日本も怪しい方向へ国が動こうとしています。 過去を見れば、自分たちがどのような世界を創るべきかは自ずから分かるはず。
日本は同じ過ちを繰り返すのですか? 原発もこのままでいいのですか?
蜂起した人たちの名前の刻まれた碑。 この長い碑の意味が、日本政府には伝わらないのでしょうか・・・
碑の後ろには美しいバラが咲き乱れます。
美しく咲くバラの後ろには燃え上がる街の写真。
街に今も残るゲットーの壁の跡。
ドイツ占領下でゲットーが建設され、市の2.4%が壁で覆われ、市の人口の30%もあったユダヤ人44.5万人が収容されます。 一人当たりに与えられた面積はたった7.55平米。
ゲットーの状況は悲惨で、1942年に各地へ移送させられる以前に、すでに病気や飢えで8.3万人の命が奪われました。 移送後の惨状はよく知られている通り。
居住地区跡を示す表示。
ワルシャワ蜂起とゲットーの様子はノンフィクション映画”戦場のピアニスト”でも描かれています。
辛いのは分かっていながら、今日もう一度映画を見ましたが、街を歩いた後だったので、余りにも生々しく、この壁の内と外での生活を思うと苦しくなります。 終盤でドイツ人将校に発見され、その前でポーランドを代表する大作曲家、ショパンのバラード第1番を演奏するシーン。 死をも覚悟したであろうシュピルマンの、ポーランド人としての誇りと市民の痛み、苦しみをピアノに向け、ドイツ人将校も敵味方関係のない、終戦間近の焦燥感を味わうシーン。 結果として、敵であろうと、味方であろうと、勝とうが負けようが、戦争が生むものは悲しみであって、人の幸せとは正反対にあるものです。
ワルシャワの町を歩くと、その空き地の多さと広々とした風景に違和感を感じます。
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