サンノゼから2時間ほど北に向かったサクラメント。 もうこの街にも幾度となく来ていますが、今回は今まで散策したことのなかったエリアを深堀り。
サクラメントは1948年に起こったゴールドラッシュの始まった場所ですが、1846年にメキシコからアメリカ領になったものの、その当時はカリフォルニアは州ではなく、サンフランシスコも人口200人程度の開拓地でした。
1949年にはサンノゼが州都と決まりますが、満足な建物すらなかった為、その数年後にはゴールドラッシュで人口も増え発展していたサンノゼが恒久的に州都となったそうです。
この立派な州会議事堂1860年から1874年にかけて、ワシントンの議事堂に倣って建築されました。
カリフォルニアのシンボルは熊とミネルヴァ。
内部にある美術館、博物館は閉鎖中でしたが、感じの良いセキュリティーを通過した後は自由に歩き回って見学をすることが出来ます。
ドームの下のホールはまるで美女と野獣のダンスホール。
あまり見学に来る人もいないのか。。ガラガラです。
ドームの装飾もとってもエレガント。
私は見つけた(ゴールドラッシュに由来する)という意味の”エウレカ(ユーレカ)”と書かれています。
正面にはサクラメントのシンボル的存在のゴールドのタワーブリッジが見えます。
グリズリーもマスク姿。
そう言えば、ここにはレーガンさんもシュワルツェネッガーさんもいたんですね。
議事堂の裏には公園が広がっているのですが、ここには各地から集められた木々が植えられていて、ホームレスも多いですが、気持ちのいい公園です。
まずは街の歴史やゴールドラッシュについて勉強するために歴史博物館へ。
さて、有名なカリフォルニアでのゴールドラッシュですが、この”ジェームズ・ウィルソン・マーシャル”が、1848年1月24日、雇い主のサッターの水車で回す製材小屋の川で金色に輝くものを見つけたところから始まります。
ジェームスは早速その金属片を雇い主”ジョン・サッター”へ見せ秘かに分析、23Kというかなりな純度の金であることが判明。
内密にしておくはずが商人で新聞業者だったサミュエル・ブラマンがサンフランシスコで大騒ぎ、人々が押し寄せサッターの畑や周辺のものをすべて破壊されてしまいます。
ゴールドラッシュに関してはまた後程触れます。
ほんの10年にも満たない間に人も住んでいなかったような場所に、世界中から30万もの人達が集まり、徐々に採掘量も少なくなり始めると、大型の噴射器を使って山を崩し、採れるだけの金を採ったようです。
ここまでして金を求めて来ても、結局大儲けした人はごくごくわずかで、それ以外はトントン以下だったようです。 それよりも何よりも、もともと住んでいた先住民族から土地を奪うため虐殺をし、インディアンの首、男、女、子供にそれぞれ値段が付けられ、金を掘るのと同じ分インディアンを殺戮してお金にしたそうです。
先住民族の人たちについても聞いた話を含めて後程触れます。
ゴールドラッシュによって街が出来、経済の発展は見ますが、採掘者で儲ける人はほとんどなく、商人や、一番初めに金が採れたことを触れ回ったサミュエル・ブラナンなどは、商魂たくましく儲けたそうです。
商船業、娯楽業、売春宿、酒場やとばく場も大きく儲けたそうですが、結局のところ一発当ててやろうと集って来た人たちの金の使い道なんて決まっているのでしょう。。
この間1845年頃には15万人と言われた先住民族は、虐殺や不当な税や採掘の環境汚染などで餓死、1870年には3万人まで数を減らしたそうです。
自分は別に電車のファンでもなんでもないですが、ここの博物館は全米でも有数の鉄道に関する博物館だそうで、せっかくなので見てみることにしました。
と、入ってまずその機関車の迫力とカッコよさに圧倒されました。 写真では伝わりませんが、想像以上の大きさとメカニックなカッコよさがあります。
これはセントラル・パシフィックの最初の蒸気機関車。 1862年にフィラデルフィアで製造されて、1863年に初めてサクラメントまで来たそうです。
この大陸に鉄道を通す作業も大変なもので、特にトンネル掘りは”大草原の小さな家”でも描かれていましたが、多くの中華移民が投入され過酷な作業をしていたようです。
1881年に製造されたコーチ。 しばらくの間一番美しいコーチと言われていたそうです。
1876年製造の”SONOMA"。
この巨大な鉄の塊は”CAB-FORWARD"。
1901年に製造されたそうで、計256台が製造され、1969年まで走ったそうですが、現在はすべてスクラップにされ、残っているのはこの一台だそうです。
石炭の代わりにオイルを燃やしたそうで、トンネルに入った時の煙はすごかったそうです。
このクラシックな計器や操縦機器の数々がジブリ感いっぱい。
戦時中には女性だけで造っていたんだとか。。
ここも今まで立ち寄ったことがなかったのですが、アメリカ西部では最古の美術館”クロッカー美術館”。
裕福だった弁護士で裁判官だったエドウィン・クロッカー(1818~1875)の個人的なコレクションが始まりで、当時オスカー・ワイルドなども訪ねて来たんだとか。
エドウィンが亡くなった後に、奥さんが市へ美術館として託したそうです。
1880年当時の様子。
ゴールドラッシュ当時に描かれた作品なども見ることが出来ます。
ヨーロッパから大陸を目指した画家たちの作品も沢山展示してありますが、ヨーロッパからやって来て雄大なヨセミテの風景などを目の当りにしたら、随分と制作意欲を刺激されたことでしょう。
日本のやきもののコーナーもあって、これは伊勢崎淳。
奥から河井寛次郎、三輪休雪、濱田庄司。 ビッグネームが並んでいます。
建物だけでも一見の価値があります。
クロッカー氏がヨーロッパを巡った際などに集めた作品が並びます。
アメリカにいることを忘れそうな重厚な建物です。
人もほとんどいないので、2時間くらいのんびり見学できました。
次に歩いて向かったのは街の端の方にある”サッターズ・フォート(Sutter’sFort)”。
ここが先にも書いたゴールド・ラッシュの始まるきっかけとなった(=アメリカ西海岸が急速に発展して出来上がったきっかけとなった)ジョン・サッターの住んでいた場所。
ジョン・サッターは元はスイス生まれで、事業の失敗で負債を抱えた為ヨーロッパから妻子を残して逃亡(?)新世界アメリカへやって来ます。
1834年にニューヨークに到着、セントルイスからサンタ・フェへ、宣教師の集団と共にオレゴンからハワイへ移動。 そこからさらにアラスカを経由してサンフランシスコに上陸したのは1839年のこと。
この移動の最中、どんな性格の人だったかは詳しくわかりませんが、かなりのはったりを利かせつつ上手く渡り歩いていたのでは。。と想像します。
当時ここはメキシコ領であったため、モンテリーまで行ってメキシコの市民権と土地の権利を得ます。
当時近隣には1000人のヨーロッパ人と、10万から70万人の先住民が住んでいましたが、この地に自分の砦を築いて”新スイス(New Helvetia)”と名付け、インディアンを雇い農園を開きます。
当初インディアンとも仲良くし、良い関係を保っていたそうなのですが、その後奴隷のような扱いに代わり、彼のために働かないインディアンは敵とみなされ、村は夜明け前に襲うという常套手段を使い虐殺。 しばしばサクラメント川は血の赤色で染まったとドイツ移民の手記にも書かれています。
サッターがここに住んでいたのは8年間。 8年目に起こったのがゴールドラッシュ。
先にも書いた通りジェームズ・ウィリアム・マーシャルが金を発見。
発見から数日後には人が大挙して押し寄せてきて、彼が築いてきた農場もめちゃくちゃに、ほぼ全てのものを破壊、彼もいくらかの金を手に入れていたそうなのですが、負債の方が多くこの土地も売り払うことに。
結局のところ金を発見したジェームズ・マーシャルも土地を追い出され、ジョン・サッターもペンシルベニア州へ。 ゴールドラッシュで失われたものを取り戻すべく裁判を起こし、1880年にはこれが認められ、連邦政府が支払いの準備をしている際に死去。
”もしも発見の成果を享受できていたなら、世界一裕福な人の一人になっていたであろう”と言われているそうです。
建物はこの中央の2階建ての建物だけが残り、廃墟となったことで人気になったそうで、一時期はホテルとして利用されたこともあったそうなのですが、1891年には歴史的建造物として修復保存されるようになったそうです。
この中央の建物の中にはサッターのオフィスやドクターの部屋が再現されています。
この”ゴールドラッシュ”というキーワード。 なかなか複雑にいろいろなことを考えさせられる言葉だったんですね。
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