Sunday, December 17, 2017

shanghai story

長らくお待たせしました。。。
しばらく更新が遅れてしまったので、今回のブログはかなり長いです。。。
上海に着いたらまずは小籠包。 で、まずは有名店”南翔饅頭店”。 ここは豫園のお店が有名ですが、支店だと行列もなくガラガラ。 ここのものはあまりスープが多くないのですが、とりあえずの足掛かりとしてはOK!
この頃気になり始めている中国茶。 上海には2つ大きなお茶の市場がありますが、まずは”天上茶城”へ。
お茶のお店は1階に何件も並んでいるのですが、どこのお店も似た感じなので、一体どこから攻めていったらいいのかわからずグルグル。
気になるところ、あまり押しの強くないところを二件ほど訪ねてみましたが、どこでも数種類のお茶を何杯も何杯も出してくれるので、ここにいる間に2度もお手洗いへ。。。
お茶の淹れ方がユニークなので、見ているだけでも楽しいです。 専用のテーブルや台に乗っている人形(tea pet)にお湯やお茶を流しながら、竹のトングで湯飲みを扱いながら進めます。
 
鉄観音などちょこちょこと買って帰りました。
ネットで美味しいと紹介されていた”佳家湯包”へ。
あまりにも目立たないローカルな感じな場所だったので、一度通り過ぎてしまいました。
決してツアリスティーではなく、とってもローカル。
手際のいい流れ作業で、どんどんと小籠包が蒸されていきます。
香醋もティーポットにたっぷり。
千切りのショウガの入った、ちょっと甘めの酢も別で注文できます。 香醋ひたひたで酸っぱいのも好きですが、この甘めのお酢もこれはこれで美味しい。
スープたっぷりで、ちょっと蟹みそも入ってて美味。 ひとり一段はペロッと食べられます。

今日お茶市場の二階にある中国の工芸品と扱うお店で買ってしまったのが、この1センチくらいの湖北省のトルコ石。 こんなティファニー色のトルコ石も珍しいですが、この細やかな細工。。 店主曰く、機械なんか使ってないんだよ。全部手で削って作ってるんだよ。 とのこと。 店に並んでいる他の超絶技巧な品々を見ていると信じられます。
中国の技術恐るべし。
この日は朝から中国の三大博物館の一つ、上海博物館へ。
ここには規模の大きい、世界的にも評価の高い青銅器の展示があるのですが、青銅時代は紀元前約21世紀から始まって、紀元前13世紀から前11世紀にかけて発展して、約2千年もの間続いたそうです。

青銅は貴重な合金だったそうで、主には儀礼、祭祀、貴賓の宴会などに使われたそうで、使用する種類や大きさ、数などで地位と権力を表していたそうです。
管流爵 前18世紀ー全16世紀
爵=酒器、もしくは飲酒器
獣面紋爵 前15世紀ー前13世紀
獣面紋觚 前15世紀ー前13世紀
觚=飲酒器
この怪しげな大きな目が特徴の模様は饕餮(とうてつ)と呼ばれるもので、このモチーフのものは多いです。 頭だけで体のない怪物。 人を食べた罰を受けて身体がなくなってしまった怪物だそうで、しかし実際周の時代にこれがなんと呼ばれていたのかは分かっていないそう。
獣面紋斝 前15世紀ー前13世紀
斝=酒を地面に流して祖先を祭るもの
父乙觥 前13世紀ー前11世紀
觥=盛酒器(鳥獣形が多い)

旅祖丁爵 前11世紀

父康觶 前11世紀
觶=杯に類似した飲酒器

觚 前13世紀ー前11世紀
漢字が複雑すぎて表記不可能なものはアルファベットで。。。 
Ya Fu Square Lei (Wine Vessel) 前13世紀ー前11世紀
Lei=大・中型盛酒器

獣面紋斝 前13世紀ー前11世紀
Ren Gui 前11世紀
Gui=穀物を盛る器
父戊方鼎 前13世紀ー前11世紀
鼎=肉類を煮る、または入れる器
甲Gui 前11世紀
大克鼎 前10世紀末
動かすのも大変そうなくらい、かなり大型の青銅器。 機械もない頃にこんなにも大きなものを鋳造するのはどんな様子だったのでしょう。。
西周時代中期になると動物紋からデザイン的な模様になって来るそうです。
Shi Hu Gui 前10世紀後半
それまでも厳めしいデザインから、流れるように美しい造形のものがちらほら。

龍紋鐘 前9世紀前期ー前777年
下の写真のようにいくつも並べて鳴らした鐘。

実際に鳴らしている音色がこちら。
四虎鏄 前9世紀前期ー前777年
鏄=鐘に似ているものの、こちらは底が平らな打撃楽器。
交龍垂鱗紋鼎 前6世紀前半ー前476年


犠尊 前6世紀前期ー前476年

呉王夫差盉 前6世紀前半ー前476年
盉=酒と水とをブレンドする容器
呉王夫差に贈られたものだそうで、あまりの細やかな装飾には目を見張ります。 現在の技術でも再現が不可能なんだとか。
透彫蟠龍鼓座 前6世紀前期ー前476年

これまた大変細工の細やか。 デザインも複雑かつ美しいし、こんなパターンを紀元前の人達がつくっていたなんて驚き。
龍紋鏄 前7世紀前期ー前7世紀前期
呉王夫差鑑 前6世紀前期ー前476年
鑑=大型の水・氷を入れる器


八牛貯貝器 前206年ー8年



五牛枕 前206年ー8年
豹鈕矛 前206年ー8年

蛙飾鼓 420-589
青銅製の太鼓。
前13世紀-前11世紀の青銅器の陶製の鋳型。
かなり細かい細工が施してあるのが分かります。

蝋で原型を作ってから鋳型を制作。
なかなか手の掛かる作業です。
ここからは陶磁器の展示。
万年仙人洞遺跡址出土陶片 前6800年
説明では中国では約一万年前から陶器の生産が始まったとあるのですが、ウィキペディアによると、最近の研究では、ここから出土した陶片の一部は2万年前のものだったとか。
日本でも土器の生産は1万6千年前と書いてあるし、どう考えても中国の方が生産は早くからやってそう。
Red Pottery Pot With Two Ears 前6000年~前5200年
龍山文化黒陶盉 前2400年ー前2000年
Impressed Pottery Lei 前11世紀ー前771年
Painted Pottery Jar With Zigzag Pattern 前2200年ー前2000年
緑釉陶狗 25年ー220年
鮮やかな色の釉薬が出始めます。

青釉布紋双系壺 25年ー220年
青釉虎子 256年ー317年
青釉空熏炉 265年ー317年
青釉褐斑鳩首壺 317年ー420年
彩色釉陶馬 618年ー907年
唐三彩が現れます。 これは主に副葬品に使われたもので、800-1000度の低温で焼かれます 色彩は黄、白、緑を主にはしていますが、他にも色があります。

彩色釉陶天王俑 618年ー907年
彩色釉陶鎮墓獣 唐618-907
この見たこともない姿の物、墓を守るために入り口に置かれた神獣の一種だそうです。
彩色釉陶文吏俑 唐618-907
彩色釉陶天王俑 618年ー907年
彩色釉陶馬 618年ー907年
彩色釉陶騎馬女俑 618年ー907年
彩色釉陶鍑 618年ー907年
藍釉陶罐 618年ー907年
なんとも美しい藍色と深緑のコンビネーション。
彩色釉陶罐 618年ー907年
白釉殿宇人物枕 907年ー1127年
青釉碗 618年ー907年
白釉瓶 618年ー907年
黒釉彩斑罐 618年-907年
天藍釉紅斑碗 1115年ー1234年
白釉”官”字款碗 907年ー960年
黒釉木叶紋盃 960年ー1279年

黒釉油滴碗 1115年ー1234年
白地杷蓮紋枕 960年ー1127年
景徳鎮窯青花云龍紋”春寿”瓶 1368年ー1398年
明の時代に入って景徳鎮の時代がやって来ました。 青花、日本でいう染付の始まりです。

景徳鎮窯白釉印花云龍紋盤 1368年ー1398年
景徳鎮窯青花枝菊紋碗 1368年ー1398年
真っ白な磁器は中世のヨーロッパ人を魅了しましたが、中国からの輸入品しかなかった為かなりの貴重品。 ここでドイツのマイセンが苦労の末、ヨーロッパで初めて磁器の生産に成功します。 この時期の生産に欠かせないのが材料のカオリンですが、これは景徳鎮の高嶺から名づけられています。
ちなみに”中国”という名前、陶磁器の事を骨のように白いことからボーン・チャイナと呼びますが、このチャイナは、もともと景徳鎮が昌南”チャンナン”と呼ばれていたことから、それが訛って”チャイナ”になったんだとか。
景徳鎮窯青花双風紋盤 1426年ー1435年
景徳鎮窯青花枝花奔紋盤 1426年ー1435年
景徳鎮窯青花双獅戲球紋盤 15世紀中期

景徳鎮窯青花紅彩海獣紋碗 15世紀中期

景徳鎮窯青花云龍紋大罐 15世紀中期

景徳鎮窯醤色青花如意花弁紋胡芦瓶 1662年ー1722年
景徳鎮窯粉彩蝠桃紋瓶 1723年ー1735年

景徳鎮窯斗彩蝠桃堤梁壺 1723年ー1735年。

景徳鎮窯粉彩牡丹紋盤 1723年ー1735年
景徳鎮窯五彩草虫図盤 1723年ー1735年
景徳鎮窯青花紅彩云龍紋盤 1723年ー1735年




景徳鎮窯青釉云龍紋缸 1723年ー1735年

景徳鎮窯青花釉里紅海水龍紋瓶 1723年ー1735年

景徳鎮窯釉里紅加彩牡丹紋罐 1662年ー1722年
景徳鎮窯粉彩鶏缸杯 1736年ー1795年。
いわゆる有名なチキン・カップ。
Rouge-Red Glazed Bowl With Enameled Design 1736-1795
印章文化は中国、日本、アジアなイメージがあって、18年間サイン文化に馴染んでいる自分には、日本の役所や銀行で印鑑が必要なのは本当に面倒。。。でも、西洋にはないユニークな文化だし、大切にしていかないといけない風習なんでしょうね。
が、しかし。。。 印章文化の始まりは紀元前7000年の中東。 そこからメソポタミアやエジプトでも使用され、シルクロードを通って中国に伝わったのが紀元前4,5世紀だそうです。 ちなみに金印は後漢の西暦57年に光武帝からもらったという事ですね。
写真は初期の頃の印章。
紀元前206年ー8年。
6,7が三国の魏。 その隣が三国の蜀。
時代が下るごとに、様々な玉を使用した素晴らしい彫刻の施された印章が出て来て、中には捺すのが大変であろうくらい大きなものもありました。
次は書の展示。
漢字のルーツ甲骨文字。
これは五穀豊穣を祈ったもので、殷の晩期(千数百年前)の遺跡から多く出土しているそうです。
骨や亀の甲に占い事を書いた後に穴をあけて、そこに青銅の棒を熱したものを差し込むとヒビが入り、それで占いをしたそうなのですが、発見されている史料うち、解読されているのはたった20%なんだそうです。
酒器(召)紀元前11世紀後期
時代が下り金文。
これは青銅器に鋳造、または刻まれた文字で、この文字を鋳込む技術は門外不出だったんだとか。
A Poem on Duo Jing Hall By Mi Fu  (1051-1107)
Qian Zi Wen by Zhao Mengfu 1254-1322
二つの字体を並べて書いてあります。
Qian Zi Wen By Zhao Mengfu 1257-1322
Tang and Song Poems by Song Ke 1360
Essay to Xian Yushu By Lu Juren 1371

Essay For Hua Jun's Birthday by Wen Zhengming 1470-1559


Flowers by Chen Chun 1537
午後には人でいっぱいになったものの、午前中早い時間は結構ガラガラ。
紫檀木彫云龍紋宝座 清代

紅木金漆嵌象牙座屏風/宝座 清代
紫檀木彫云龍紋長方卓/宝座 清代
すでにまるで仏壇。。。
Folding Armchair With Curved Rest 花梨木 明代
璧 紀元前3200年ー紀元前2200年。
”完璧”の語源にもなっている”璧”。 もともは神権の象徴で、その後祭祀、祭礼用の玉器として使われたそうです。
その昔、秦の国王が趙の国にあった璧を、15の城と交換するという約束で手に入れたものの、秦が城と交換する気配を見せなかった為、趙の使者が傷1つ付けず命懸けで国に持ち帰った事から”完璧”という言葉が生まれました。
ちなみにこの璧は銘を”和氏の璧”と言うそうなのですが、そのエピソードはウィキペディアでどうぞ。
璧 紀元前3200年ー紀元前2200年
神像紋琮 紀元前3200年ー紀元前2200年
琮も祭祀用の玉器。
交龍 紀元前475年ー紀元前221年

Double Ring Shaped Bi with grain pattern 475-221BC
龍紋鮮卑Buckle 265年ー420年
皇帝鮮卑のローブのベルトのバックル。

玉具剣 紀元前206年ー8年

この辺りは1849年からおよそ100年間フランスの租界だったエリア。 西洋っぽい建物が広範囲にわたって並んでいるのですが、とってもローカルなお店とハイエンドなお店が混在していて、迷子になりながら通りを歩いているだけでも楽しい場所です。 西洋人も多いエリアです。

どこを歩いていても、あちこちに大きな赤の文字などで書いてあるのがこういったプロパガンダ。 読んでいると結構面白い。^^
中国にいる間に”景徳鎮”を何点か手に入れたいと思っていたのですが、ネットによると”常楽(チャンラ)”には景徳鎮の若手作家の作品が並んでいるという事だったので足を運んでみました。 行く前にはメールか電話をしてから行った方がよいようです。
住宅地の中に入って行った、とてもお店がありそうな場所ではないのですが、迷うこともなく行き着くことが出来ました。
小さいながらも素敵な雰囲気のお店には、景徳鎮によくある青花や彩色のものはなく、大変シンプルで、日本の家にもしっくりとくるような作品がたくさん並んでいました。 どれも素敵で、店主アレックスの趣味の良さが伝わって来ます。
アレックスの話もとても面白くて、現在の景徳鎮の話や、中国事情などについてしばらく話が止まりませんでした。
中国茶を飲ませてくれるという事だったので、また来週に訪ねる約束をして、2点だけ購入して別れました。
常楽 CHINALE 静安区長楽路774弄 22号101
写真では色味が伝わりませんが、素敵な器が見つかりました。 この下の台は器が展示してあったものなのですが、アレックスに”この下の台も気になるんだけど。。”と伝えたら”うちにあるものは全部景徳鎮での手作りで売り物だよ、この木も景徳鎮の木で香りがいいんだよ。”とのこと。 一緒に頂いて来てしまいました。

 
こちらもフランス租界をプラプラしているときに見つけたお店で見つけたもの。 ここの窯元の器、日本では10倍近くの値段がついてた。。。 景徳鎮の器は透けるほど薄いのに強いのが特徴。 お湯呑みも日本のそれと違って軽いです。
で、気になったのが窯印。 景徳鎮には窯印の書かれていないものも多いのですが、アレックスに訊ねたところ、最近は窯印を書く人は少なくなっているとのこと。窯印を見なくても、その人の作風が分かるから必要がないからというのが理由らしいです。

上海の観光エリア、田子坊。
ここはちょっと観光地化され過ぎてて自分的にはいまいち。。
 これは上海だけに限ったことではなくて、中国人のスマホ依存度は日本人をも上回りそう。 地下鉄などではほぼ100%スマホを見ているし、どんな人込みでもビデオを見ながら歩いている人も多く、事故も起こりかねない結構危険なレベル。
 あと、あちこちに公共ルールを順守するような表示があるのですが、まぁ意味ないです。 電車ののドアが開けば出る人も入る人もごちゃまぜ。。。 人を押しのけることもごく当たり前の行為なのですが、それと同時に、自分の不注意で誰かに当たってしまった時などでも相手の人は気にもしてないです。
街中で”カ~~~~~~ッ!!ペッ!!”と痰を吐くのも、押しが強かったり、素っ気なかったり、フィジカルな距離感が異常なほどに近いのもここではごく当たり前なこと。 そういうことがいちいち気に障っている様では一歩も外に出られません。
この辺りは昔と何一つ変わっていないのですが、街は国の急な成長で最新のインフラが整備されているし、高級ショッピングが林立。 高級車もバンバン走っています。 高度成長期の昔に整備された日本のインフラとは比になりません。 あと、街を歩く人達のファッションレベルがかなり上がっていて、昔の中国ファッションから抜け出しつつあるのが分かります。 これもネットの普及で国外のファッションなどに触れる機会が増えたからでしょうか。
先週、常楽の店主アレックスにお茶をごちそうになる約束をしていたので、約束の時間にお店に行ったらすでに全て準備をしてくれていて、さっそくごちそうに。
中国茶には”ウェット・テーブル”と”ドライ・テーブル”があって、ウェットの方は専用の木や石で出来たテーブルを使って、急須などを温めたお湯や残ったお茶などを、そのままテーブルの上に流し捨てながら進めていくやり方。ウェットの方には台の上に”ティー・ペット”と呼ばれる小さなカエルや人をかたどった陶器の置物があって、時々その上から残ったお茶などを流して、その色が変化するのを楽しんだりもするようです。
ドライの方は写真のような感じでテーブルをセットアップして進めていきます。
中国茶は急須も湯飲みも小さくて、小さい分何度も新しいお湯を注いで淹れていきます。 お湯を注いでからお茶の出る時間はどれも大変短くて、ほんの数秒から20秒程度。 烏龍茶などで7,8回、紅茶などで20回程度は同じ茶葉で入れることが出来ます。
中国は行くところ行くところにこのお茶セット一式が置いてあって、と同時に湯沸かし器も置いてあります。
何度もこまめに淹れるのはお湯を沸かすのが面倒なような気もしますが、どこにもこの湯沸かし器があるのでその点は大丈夫。 日本のように大きな急須でいっぺんに入れるより、このように少量ずつ淹れる方が、常に新鮮なお茶が飲めるので理に叶っているような気がします。
急須の上からお湯を流したり、わざとお茶を溢れさせることもあるので、このようにお皿を下に置いています。
お茶葉を載せて香りをかいだり葉を眺めるお皿。それを急須に入れる為の棒。急須とお皿。お湯や残ったお茶を捨てる大き目な器。すぐにお茶が出るので、湯飲みに入れる前にワンクッション置くための日本の冷酒を入れるような器。小さな湯飲みと茶托。
2時間ほど淹れては飲み、淹れては飲みしながらいろんなことに関して話が続きました。
ここで上海で美味しいお茶を買うにはどこがいいかを聞いてみたところ、彼の友達を紹介されたのですが、それがなんとイタリア人。 え?と聞いてみると、彼は中国語もペラペラなイタリアの学生で、中国人よりも中国茶に詳しいらしく、中国人が2000人も参加する中国茶のコンペティションで、なんと6位になったんだとか。。。 これはビックリ! その場でアレックスがその彼にメールをしてくれたら、この日の夜にそのイタリア人”エド”からの論文並みの長いメール。
そのメールは中国茶に対するパッションに溢れていて、お茶について、上海のお茶事情やおススメの茶房について大変詳しく書いてあって、メールの最後には”お茶を試して、自分の体のフィーリングに耳を傾けてみて。 お茶の良し悪しは値段ではないし、手の出せるお茶で幸せになれるよ。 もしこれは本物か偽物か、いいお茶なのか悪いお茶なのかを考え始めたらトラブルになるだけ。”と書いてありました。
Edoは何店舗かおススメの茶房を教えてくれたのですが、一緒にお茶屋に行きたいと言っていたフランス人を連れて、この”归扑”(Guipu)へ。
お店は建国路619の不安になるくらい住宅街の中へ入り込んだ12号。 建物の角を曲がると、そこには周りの雰囲気とは異なる別世界が待っていて、そこはまさに桃源郷のお話。
まずお店に入ると迎えてくれたのが、ここの主人”リンリンさん。”。 自分たちが彼女に付けた名前が”Tea茶”(Teacher)^^
なんとも素敵な茶器と設えで、お茶を入れる手順も所作もとっても素敵。
彼女はずっとOLをしていたんだけど、どうしても中国茶が大好きでこの場所を作ったらしくて、本当にそういう大好きなものを集めたような閑で心安らぐ場所。
中国にいるとあちこちで見かけるのがこの”仏手柑”。 中国に来る前に京都の東寺に行った際、そこに日本では珍しいという売りで置いていたのがこの仏手柑の飴で、実の形が仏様が手を合わせている姿に見えるということで、この名前が付いたとか。 大変良い芳香がして、丁度この日も東寺で買った飴をカバンの中に入れていました。
まず淹れてくれたのが”正山小种”
正山小種とは簡単に言えば紅茶。 煙熏小種は松で燻してあって、この燻製にしてある方がヨーロッパでいう紅茶の原点だそうです。
この正山小種はダージリンに近いような味と香りで、煙熏小種の方は茶葉からも強力なシガーのような香りがして、お茶もかなりインパクト大。
中国茶は心を静めて五感を研ぎ澄まして味わうことが大切なようで、葉の香り、蒸された葉の香り、急須の蓋の香り、注いだ後の器の香り、飲んだ際に口に広がる味と香り、それらは淹れる度に微妙に変化を重ねて、器の香りなどはまるでフローラルなパフュームのようで、その香りは部屋の中にも漂って、なんとも心地の良いものです。
今まで紅茶をこのように淹れたこともないし、味わったこともないし、これは大変に新しい発見でした。
これは烏龍茶の中でもEdoの好みだという”やんちゃ”で”水仙”と呼ばれるお茶。
これはイメージする通りな烏龍茶で、しかし今まで飲んだことのないよな甘い芳香がして、飲んだ後の器も花の香り。 これまた素敵なヨーロピアンなパフュームの香りです。
お茶菓子も。 ここに至るまでにお腹がタプタプになるほどお茶飲んでます。。。




リンリンが書いていたのは般若心経。
日本でも同じ般若心経を唱えるんだよと読んであげたら驚いていました。
般若心経は大乗仏教の空と般若(物事や道理の神髄を見抜く智慧)を説いた経典で、現在最も広まっているものは玄奘三蔵の訳したものだそうです。
やはり中国から東に住む人たちの心の奥底には孔子、孟子や仏教の考えが根を張っているんでしょうね。

ごく最近から筆を持つ練習をしようと、ちょこちょこ始めましたが、やはり難しいねぇ。。。 自分の書いたものは恥ずかしくてここには載せられません。。。 あしからず。><






 
 別の日に散策をしていた時に見つけたのが文具のエリア。 人民広場から入った福州路に同じ様なお店がずら~っと並んでいて、無数の筆や様々な種類の紙、硯に印、筆を掛けるものなど、見ているだけでも楽しいものが並んでいました。 筆も美しく、しかも格安。 100円程度から揃います。
まだ全然筆を使いこなせれていない自分ですが、使えれるようになりたいという願いを込めて数本購入。
日本でも四や九は発音と掛けて忌み嫌いますが、それは中国でも同じ。 ”四”と”死”はどちらも発音が”スー”で近いために4階がありません。 面白い共通点。

さて、一泊二日で新幹線で30分の距離にある蘇州夜曲でも有名な”蘇州”へ。
新幹線は格安で、蘇州まで片道$7程度。 切符を買うにもパスポートが必要だし、駅に入るにも、まるで飛行機に乗るかのようなセキュリティ・チェックを受けてから構内に入ります。(ちなみに中国は普通の地下鉄に乗るにもセキュリティー・チェックを受けます。) 新幹線の乗り心地は日本の新幹線と変わらないくらいスムースで快適。
まずは李香蘭のこの歌で。
蘇州での観光の中心にあるのは山塘街(七里山塘)。
13世紀にここへやって来たマルコポーロが”東洋のヴェニス”と名付けたように、縦横に水路が走っていて、大変風情のある景色をつくっています。
ここの街の歴史は古く、春秋時代には呉の都が置かれていて、呉の文化の中心地となっていたそうです。




水路には沢山の橋が架かっていますが、どれもこんな感じでとっても急。


街の中にはいくつか世界遺産に登録されている庭園が存在しますが、ここ”留園”もその一つ。 そして”中国四大名園”のうちの一つ。 中国四大名園はここ”留園”、北京の”頤和園”(以前のツアーの際行った場所)、承徳の”避暑山荘”、そしてこれも蘇州にある”拙政園”。
ここは元々1593年に個人の庭園として建設されて、戦乱の際には何度か荒れ果て、日中戦争の際には軍隊が馬を養う場所にも成り果てたそうなのですが、1954年には再度整備され、一般に開放されたそうです。






中国はどこの庭に行っても沢山の奇石があって、その石の造形の美しさが中国庭園らしさを出しています。

日本庭園も中国庭園も”静”と”動”の組み合わせだと思いますが、中国の方が”動”の割合が多いですね。 


”侘・寂”は日本人独特の感性、美意識のように言われますが、中国にこの感覚は間違いなく存在していると思います。 お茶も心静かに、所作も美しく楽しむし、閑でいて凛とした感覚もあります。 しかし、やはり大陸的でダイナミックな部分も多いかな。
すでに盆栽の域を通り越して庭木。。。><



盆栽も水盤も奇石も、すべてその景色をめでる感覚は日本と同じ。

七里山塘。
蘇州の料理は日本の中華料理のような味付けで、これが名物の”松鼠桂鱼”。 白身魚をリスに見立てた切り込みを入れて揚げたものなのですが、味付けは酢豚っぽくて、とっても美味しいです。 
味はちまきそのもの。 うん。美味しい!
杭州も含めてこの辺りでよく見かけていて、ちょっとネーミングから興味がありつつ挑戦できなかったのがこの”老酸乳”!! ”酸乳”がヨーグルトだということは分かっているんだけど、それが”老い”たらどうなるんだ??? チーズっぽいのか?? などなど想像していたのですが、試さずに中国を離れることはできないと思い挑戦。
”チ。。。チチヤス・ヨーグルト”。。。 そうです。味はチチヤス・ヨーグルトそのものでした。 な~んだ。。。 ビビってて損した。

広場ではおっちゃん、おばちゃんカラオケ大会。

この辺りの景色はまさに東洋のヴェニス。 さしずめカナル・グランデとリアルト橋でしょうか。

細い路地を歩いていたら練炭のいっぱい詰まれたリヤカー・バイク。 練炭未だに現役かぁ。。


アレックスが勧めてくれていた平江路。
この辺りも風光明媚で、お店も沢山。

フラット入ったお店の隅に重ねてあったのがこれ。 明代の陶片を花形に削ったもの。 
本当にそんなに古いものなのかは確認のしようもないけれど、雰囲気もいいし、格安だったので、青花も多かったのですが、これを購入。 お店の人曰く茶托にするそうなのですが、茶菓子のっけてもいい感じ。
この日はここの近所に宿泊。

次の日はここから。
同じく中国四大名園の一つ”拙政園”。

ここは1510年に役人だった人が、職を辞してから造園。


近くにある北寺塔が入り込んでいい景色。




どこの庭園もこの透かし窓が素敵。 

中国の瓦は日本のものに比べて随分薄く、こんな感じで重なっていて、これにはまた違った趣があります。 よく地面にも模様で敷き詰めてあります。


ここもアレックスがおススメしてくれ蘇州博物館。
ここを設計したのはルーブル美術館のガラスのピラミッドを設計したイオ・ミン・ペイ。 以前カタールで行ったイスラム芸術博物館も彼の設計。 よく見るとどちらも似たような感じ。 直線と空間の使い方がとってもユニーク。


展示室と収蔵品はそこまで多くないのですが、いくつか中国史にとって大切な展示物もあるようです。
五代の”秘色瓷蓮花碗”。
この秘色(ひそく)とは、当時天子の為に焼かれた理想の青磁で、民間で使用することはありませんでした。 ぽってりとした艶があって、独特な色合い。




博物館の隣にあるのが太平天国の蘇州の拠点”忠王府”。 こちらも入場は無料。 入り口は博物館から繋がっていて入れます。
李秀成。 この地域を攻略し、ここに忠王府を建てた人物。



自分は太平天国に対しての詳しい知識が無いのですが、アヘン戦争で弱体化した清に対し、キリスト教を信仰して清に対抗した、日本の幕末の混乱に似たものを感じるのですが。。。違うかな?
1851年に始まり、1864年に終結。 李秀成も南京を脱出したものの捕らえられ41歳で刑死。





ここ忠王府、そんなに訪れる人も多くなく、静かに建物を楽しむにはとってもいい場所。




京劇の舞台もあります。
庭も建物も美しいので、博物館まで行った人は必見。
通りを歩いていたらいろんな作業場があるのですが、この辺りには扇子を作っているところも多くて、乾かしている竹もなかなか綺麗。
北寺塔は蘇州でも一番古い寺。 三国時代の呉の孫権という人が、母親の恩に報いるために建立したお寺で、その後”報恩寺”となったそうです。
すぐに目に飛び込んでくる塔は532年に11層で建てられ、その後何度か壊されて、北宋年間に9層になったそうです。
入り口で無料でお線香を頂けます。
ここは観光客もほとんど来ないようで、たいへん静か。

尼僧の方々が美しい韻でお祈りを唱えながら塔の周りを回ります。

奥にあるのが観音殿。

地下鉄と徒歩20分で”寒山寺”を目指します。
寒山寺の前身”妙利普院塔院”が建立されたのが南北朝時代の502年から519年。 その後627年から649年の唐代に”寒山拾得”の寒山がこの地に庵を結んだという伝承にちなんでいるそうです。 自分のイメージでは寒山も拾得も柴又帝釈天の源ちゃん。 現在の建物は約100年前に再建されたものなので、昔話を彷彿とさせるような雰囲気はありませんでした。
門をくぐると、落葉した銀杏で鮮やかな黄色の絨毯。 黄色と白の壁と所々にある赤い色、後ろには無数の輝く金の羅漢像。 むせぶような色に溢れていました。

中国人観光客がみんな写真を撮って行くのがこれ。
張継の七言絶句”楓橋夜泊”。 この中に出てくる寒山寺は直接この寺を指したものではないらしいのですが、楓橋はこのお寺のすぐ近く。
都落ちした旅人が、この楓橋の近くで船中に泊った際、陽が落ちて、霜の気配が天に満ちる中、闇の中にカラスの鳴き声を聞いて、漁火に郷愁で眠れない中、街はずれの寺の夜半を知らせる鐘の音を聞いた。というもの。
空海は長安に向かう際、ここ蘇州へ入り、寒山寺にも立ち寄ったということです。
ここには弘法堂もあります。
正面にあるのが玄奘三蔵。
こちらが多難を乗り越え日本へ渡って来てくれた鑑真和上。
そしてこちらが弘法大師。

寒山寺の鐘は幾度となく鋳造されているのですが、こちらにあるのが五代目の鐘。 重さが108トン、高さが8.5メートルもある巨大なもの。 京都の方広寺の梵鐘も大きいなぁと思ったけど、あれでも高さが4.2メートル。 こちらのものはその倍以上なので、その大きさが伝わるかな?

ここでは日本の風習である除夜の鐘が撞かれていて、その音を聞くと10歳若返るんだとか。。。 毎年聞いていたら大変なことになってしまいそう。。



二日間の蘇州旅行を満喫して上海へ戻りました。

中国最後の日は日本のヘアサロンへ髪を切りに行って、そのまま豫園や外灘をプラプラ。
豫園の周辺にあるマーケットはなかなか面白く、色々なものを扱っていて、散策して歩くだけでも楽しいです。



豫園は常に観光客でいっぱい。 ここには以前入ったので今回はパス。
外灘(ワイタン)とは外国人の河岸という意味で、もともとはイギリス、そしてアメリカの租界だった場所です。 各国の銀行、上海クラブ、フリーメーソンのクラブもあったのがこのエリア。
外灘の川向がこの景色。
以前はボールのくっついたタワーの東方明珠電視塔が目立っていましたが、今は世界で2番目の高さの上海タワーが出来たので、景色も随分と変わりました。
外灘からビル街の浦東新区には”観光トンネル”を通って渡ることが出来ます。 ちょっとSFチックなトンネルです。

奥にあるのが去年完工した632メートルのビル、上海タワー。