Thursday, October 22, 2020

best year to enjoy my own country

数日の間岡山を脱出。
久しぶりに京都で友人と過ごしたり寺巡り。 高野山と同じく、こんなにも静かな日本を堪能できる機会は今年が最初で最後では。
本来あるべき初秋の古都を歩いてきました。
醍醐寺。
何年も通い続けたスケートリンクは醍醐アリーナ。 それなのに一度として足を運んだことがなかった古刹。
空海の孫弟子が874年に開山して、その数十年後には醍醐天皇が自分の祈願寺としたそうです。
応仁の乱で五重塔以外を失いますが、秀吉、秀頼によって復興。 有名な”醍醐の花見”が催されます。
国宝”三宝院唐門”。
三宝院は醍醐の花見の際に整備されたそうですが、この唐門は別の場所に建てられる予定だったものだとか。 近年漆も塗り直されて豪華絢爛。
国宝”金堂”。
元々は紀伊国の平安時代建立の満願寺本堂。 秀吉が紀伊征伐をした際に城と共に焼き討ちにする予定が、ここへ移築されることに。 1600年、秀頼が落慶しています。
本尊”薬師如来坐像”。
国宝”五重塔”。
951年に、醍醐天皇の冥福を祈るために第三皇子が発願。その20年後に完成した京都で最古の木造建築。 内部に描かれた弘法大師は、当人の描かれたものとしては最古だそうで、塔とは別に壁画として国宝に指定されているそうです。

観音堂。
霊宝館で開かれている秋の特別公開。
国宝の数々と共に展示されているのが、近年快慶作とされた水晶の蓮の花の中に立つ阿弥陀如来”水晶宝龕(ほうがん)入り木造如来立像”。
そのほか国宝の薬師三尊像など見どころが満載。
この日はとても気持ちのいい秋晴れ。 境内もたいへん静か。
国宝”三宝院書院”。
庭園は秀吉が醍醐の花見に際して自ら設計。 秀吉は花見の開かれた年の9月に他界したので、その後は座主の義演がライフワークとして引き継ぎ、亡くなるまでの27年間造り続けたとか。庭を眺めながら盆栽をいじくるかのように石や木を動かし続けたのかな?

東山まで戻ってきて”河井寛次郎記念館”へ。
すでに益子も訪ね、去年はバーナード・リーチのセント・アイヴィスへも行くことが出来たので、今回は河井寛次郎。
民芸運動の中心人物の一人ですが、ここは彼の自宅兼仕事場。
戸をくぐった瞬間から、どっしりとした木の重さを感じる温かい田舎家のような雰囲気。
濱田庄司の自宅もそうですが、一つ一つどの調度品にも強い思い入れが込められているのが伝わってきて、本当に素敵な空間。
60から木彫を始めたそうですが、独特な作品がいくつも並んでいます。







自らがデザインしたキセル。



陶芸家でありながらも、彫刻、デザイン、書など、その活躍は多岐にわたっています。
もともと五条坂にあったこの登り窯は譲り受けたもの。











なんとも気持ちのいい空間。






清水寺に上がる茶わん坂もこの静けさ。
ここで生まれ人間国宝にもなった近藤悠三の記念館。
この素敵な空間に入っているのが”たすき”。
作品を眺めながらお茶、お酒が飲めます。 コーヒーが欲しかったものの、なかったので氷を頼んだらこの仕上がり。。
他に客もなく、作品を眺めつつ休憩。
https://www.smiles.co.jp/news/2020/09/-2020920.html
普段なら平日でもお祭り騒ぎのように人がいっぱいの通りもこの様子。
素敵な古都を満喫するには今しかない!
元清水小学校がリノベーションされて高級なホテル”The Hotel 青龍”に。
ここのルーフ・トップ・バーが”K36”。
3時過ぎに入ってから、友達を過ごすこと数時間・・? 気が付いたら10時を過ぎていました。
コロナが収束したら行列ができて、こんなにのんびりもさせてもらえなくなるんでしょうね。
渡来人”秦氏”の氏寺”広隆寺”。

本堂の”上宮王院太子堂”。
本尊は聖徳太子像で、この聖徳太子は服を着ているのですが、この服は天皇が即位の礼などで着用され黄櫨染(こうろぜん)の御袍で、天皇から贈られたものを着る習慣は平安時代から現在でも続けられているそうです。
ここ霊宝館に納められているのが、あの有名な国宝彫刻第1号の弥勒菩薩半跏像。
他にも素晴らしい彫刻の数々が並べられていますが、詳しくはウィキ教授へ。

西の御所とも呼ばれる花園天皇の”妙心寺”。
野球場8つ分とも言われる広大な敷地に本堂と48の塔頭がはあります。
こちらも秋の特別公開で、普段は足を踏み入れることのできない妙心寺の中枢”玉鳳院”や、この明智風呂などを見ることが出来ます。


ここが”玉鳳院”で、この門は元々は御所にあったもので、なんと応仁の乱の際に門を挟んで両側から放たれた矢の痕跡が今でも残っているということ。
しばらくは矢じりも残ったままだったんだとか。
このお寺は一番の聖域なので写真も撮ることが出来ませんが、ここは元々は花園天皇の住まい。 花園天皇は後醍醐天皇の前の天皇で、12歳で即位、若くから禅宗に傾倒して大徳寺の開祖宗峰妙超を師としますが、この宗峰妙超は11歳から書写山円教寺で天台宗を学びますが、その後禅宗に目覚めたそうです。
宗峰妙超が亡くなる際、花園上皇は次は誰を師とすればいいのか尋ねたところ、彼の高弟”開山”を薦めたそうなのですが、当の本人がどこにいるのかも分からず全国にお触れを出して探すと、岐阜の山奥で修行をしていることが分かるのですが、当人はまだ修行の身ということで何度も京都へ来ることを拒んだそうで、京都行を承知した際には岐阜から村人も連れてきたそうで、今でもその時に移り住んだ人たちが多くこの辺りに住んでいるんだとか。
そんな開山をお祀りするのがここで、また数え年3つで亡くなった豊臣秀吉の息子”鶴松”の葬儀が行われたのもここ。 建物の裏にはひっとりと彼のお墓がありますが、上には小さな男の子の坐像が祀られています。


法堂には狩野探幽による壮観で巨大な雲龍図が描かれていますが、この建物を支える巨大な柱は富士の山麓から運ばれたもので、この時に柱が運ばれたのが丸太町通りだとか・・
この龍、見る方向によって上り龍にも下り龍にも見える不思議。
あと、この法堂に納められているのが日本最古の釣鐘”黄鐘調の鐘”。 去年訪れた大宰府の観音寺の鐘と同じ木型で造られた兄弟鐘で、698年の鋳造。
https://www.myoshinji.or.jp/
広い境内を北に抜けて。。
辿り着いたのが”仁和寺”。
”御室御所”と言われるくらい皇室とは縁の深いお寺で、明治に至るまで歴代皇子皇孫が門跡を務めて来ました。
御殿。
白書院からの南庭。


将棋の竜王戦も行われる”宸殿”からの庭。
第二次世界大戦末期、日本の敗戦が見えてきた際、近衛文麿は何度もここを訪れ、昭和天皇を退位させ、ここで出家させる計画があったそうで、何度も会議をしたそうです。
奥の霊明殿の扁額は近衛文麿の絶筆なんだとか。
国宝”金堂”。
本尊阿弥陀三尊を安置する御堂で、元々は御所の紫宸殿として1613年に建てられたもので、現存する紫宸殿では最古のものだそうです。 移転の際に檜皮葺だった屋根はお寺に合わせて瓦ぶきに変更されています。
御苑のすぐ隣”盧山寺”。
元三大師良源によって開かれたお寺で、家の玄関先などに貼ってある怪しい姿のお札”角大師”としても有名。 この角大師は良源が夜叉の姿になって疫病神を追い払った時の姿だそうです。
ここは紫式部の邸宅のあった場所でもあり、ここで結婚生活を送り、娘を育て、そしてかの源氏物語を執筆したそうです。
1571年、信長は比叡山を焼き討ちにしますが、ここも天台宗のお寺なので標的にされますが、正親町天皇のこの寺を焼き討ちにしないように求めた奉書のお陰で難を逃れます。
それの縁で、この寺には光秀の念持仏(常に手元に置いて信仰する仏)があります。 この念持仏、ジオラマのようになっていて、戦の際には中心の地蔵菩薩だけ取り出して行ったそうです。
天皇の奉書も、光秀の念持仏も見ることが出来ます。
江戸期には何度か焼失しますが、現在の本堂は御苑にある仙洞御所の一部を移築したものだそうです。


御苑もこの静けさ。
京都御苑は中心部に御所があり、今は誰でも見学ができるようになしましたが、南東側には仙洞御所があります。 ここも予約すれば見学をすることが出来ますが、今回足を踏み入れてみました。
この地は元々秀吉の聚楽第の後身として”京都城”のあった場所で、秀吉の亡くなった後は北政所が住んだりしていたものの、後水尾天皇が譲位を示した後に天皇を退位した後の御所となります。
光格上皇が崩御した後は上皇がいなくなりましたが、去年から上皇が復活し東京に新たな仙洞御所が必要となったので、ここは”京都仙洞御所”と呼ばれるようになったそうです。
この大宮御所はもともと宮尾登美子の小説でもおなじみ東福門院の女院御所が始まりで、現在も皇室の京都での滞在先として現役だそうです。
東山を遠くに望んで広い庭園がありますが、小堀遠州が作庭するものの、後水尾天皇は気に入らず、自ら造作し直したんだとか。

北池の北側にあるのがこの紀貫之の邸宅のあった場所。








南池の岸は”州浜”と呼ばれていて、一面に丸い石が敷き詰めてありますが、これは遠く小田原から運ばれた一升石と呼ばれるもので、村人は石1つを米一升を引き換えに集めたんだとか。 その数11万個。



帰る前に嵐山へ。
普段だったら観光客でごった返すここへは近寄りませんが、今はこの状態。
渡月橋も日常の生活道路に戻っています。
”天龍寺”。
足利尊氏が後醍醐天皇を弔うために創建された臨済宗の寺。 尊氏からすれば後醍醐天皇には裏切られたかたちで、どちらも最後には敵対したのにどうして尊氏はこの寺を建てたのか。。それは当時後醍醐天皇や武家から敬われていた禅僧夢窓疎石の強い勧めによって。
ここには後嵯峨天皇の仙洞御所があった場所で、後醍醐天皇も幼少の頃はここで育ったそうです。


この山を背景にした曹源地のある回遊式庭園は夢窓疎石の作庭。





多宝殿には後醍醐天皇の木造。







普段は観光客で大行列な竹林も。。あぁ静かで風の音まで聞こえそう。


この柿の実(みのる)、趣の塊のような場所はその名も”落柿舎(らくししゃ)”。


ここは松尾芭蕉の門人”向井去来”の家で、芭蕉自身も三度訪れ、嵯峨日記を記したのもここだそうです。



いかにも俳句が出てきそうな佇まい。
この”落柿舎”の名前の由来は、ここには柿の木が40本もあったそうなのですが、一夜にしてその実のほとんどが落ちてしまった逸話から来ているそうです。
小倉山に建つ、小倉あんの発祥の地でもある”二尊院”。
天台宗の三代目座主円仁によって創建されますが荒廃、その後法然の高弟らによって再興され宗派が入れ替わります。
法然の死後、遺骸は知恩院へ埋葬されますが、天台宗の比叡山の宗徒は浄土宗の人気を苦々しく思い、朝廷に対し浄土宗の僧の流罪と、法然の遺骸を鴨川に流してしまうよう訴えます。
延暦寺の僧兵は朝廷からの許しが出ていないにもかかわらず法然の廟所を襲って破壊。 浄土宗の宗徒は驚いて法然の遺骸を掘り起こすと、六波羅探題の武士1000人が集結、遺骸を護衛してここ二尊院まで運び守ります。
その後も天台宗から浄土宗への弾圧は続きますが、その後法然の遺骸は荼毘に付され、いくつかの寺へ分けられることになります。




ここ二尊院は盧山寺と同じく、南北朝の時代から明治に至るまで御所内の仏事を取り仕切った4つの寺のうちの1つで、この額は後奈良天皇の宸筆。

二尊院と呼ばれるのは、ご本尊が阿弥陀如来と釈迦如来の二人がおられるから。
”発遣の釈迦”と”来迎の弥陀”だそうです。



ここを再興した法然の高弟”湛空上人”の廟であり法然上人の廟。
皮肉にも?江戸の後期からは天台宗に戻ります。
二尊院の奥には藤原定家の庵があり、そこで百人一首の選定を行ったといわれていますが、この慈眼堂にはその藤原定家の念持仏である”千手観音立像”が祀ってあります。

光背も美しいですが、鎌倉時代初期の藤原風な美しさが現れる仏像だそうです。
釈迦37歳の時の姿を彫ったとされる国宝の釈迦如来像のある清凉寺。
この場所は嵯峨天皇の皇子で右大臣だった源融(みなもとのとおる)の別荘”栖霞観(せいかかん)”のあった場所で、この源融はかの光の君(光源氏)の実在のモデルとされています。
そして源融が発願した国宝の阿弥陀三尊像を安置して棲霞寺(せいかじ)とします。
霊宝館では秋の特別公開でこの阿弥陀三尊座像を拝むことが出来ますが、中尊の阿弥陀仏は本人源融の顔に似せて造らせたそうで(やはり美しい顔との自覚があったのか?)”光源氏写し顔”と言われているそうです。
確かに鼻筋はすっと通って、眼差しも優しく温かく、美男子を仏顔にした感じには見えます。
あと、この霊宝館には本堂にある釈迦如来像の体内から発見された五臓六腑を絹で作ったものの写し(本物は体内に戻されたものの、これは世界最古の内臓模型とのこと)や、これも体内から発見された日本最古の平仮名の書など、興味深いものも展示されています。 仏様の中に内臓を入れるとは、本当に生きている釈迦そのままを作ろうとしたんですね。
本堂の中心にはその釈迦如来像が立っておられますが、高さ160センチ、中国の桜で造られています。
東大寺出身の奝然(ちょうねん)は984年に宋の都でインドの王が釈迦の在世中に彫らせたという霊像を拝し、翌年同じ姿のこの釈迦如来像を彫らせます。
頭髪はよくある大仏頭ではなく、髪の毛を編んであって、やはり釈迦本人の姿のよう。
徳川綱吉の母桂昌院(けいしょういん)は、応仁の乱で焼失した京都の寺院の数々を再建、再興していますが、ここ清凉寺もその1つで、彼女にまつわる品々も展示してあります。




境内にはこの”生の六道”がありますが、東山の清水の手前にある六堂珍皇寺はこの世とあの世の境目、小野篁が冥界へ通った井戸が残されていますが、その小野篁が戻ってくるのがここ生の六道。 京都を斜めに突っ切った形になりますが、この辺りの話ミステリアスで面白そう。
あと、もう1つ興味深いのがこの”豊臣秀頼の首塚”。
ご存じの通り秀頼は大坂夏の陣で21歳の短い人生を終わりますが、昭和55年の大阪城三の丸の発掘調査で秀頼のものとされる、介錯された頭骨を発見します。 状況から本人であると結論が出て、3年後にここ清凉寺に埋葬されたそうです。