Sunday, July 5, 2015

great vacation

のんびりとした時間を過ごさせてもらっているワルシャワでの休暇。 一日一日、どんどんとこの街のことが好きになっています。
イギリス資本の多く入っているワルシャワですが、滞在期間中何度も通った街中に点在するイギリスのチェーンカフェ・ネロ。 ここポーランド・ヴァージョンはgreenという会社とくっ付いていて、サンドイッチやキッシュなど、美味しいフレッシュ・フードが充実していて、本家のそれよりぜんぜんグレードアップ。 チェーンなのに店内もオシャレで過ごしやすく、とっても気に入りました。
 今回の休暇で付き合ってもらっていたパウエルとその友達カーシャ。 あちこち地元の人の集まる場所などにも連れて行ってもらえて、二人には感謝感謝!
ここが街の中心となるセントラムですが、アパートからここまでは歩いて3分の便利さ。
ここが旧市街へと繋がっているメジャー観光通りのKrakowskie Przedmiescie。 いつも観光客で賑わっています。
歩いてきたのがここショパン博物館。 元はオストログスキ家の宮殿で、現在はポーランド出身の大作曲家ショパンの博物館として公開されています。
博物館の中はかなりハイテク化されていてちょっと展示の理解が難しい・・・。 これは当時の彼のリサイタルのポスター。
実際に作曲を行っていたピアノも展示。
39歳でその生涯を閉じたショパン。 その中で10年もの恋人関係を続けたのが男装の女流作家、恋多き女性ジョルジュ・サンド。
1836年に始めて二人が出会った際には、ショパンは彼女に嫌悪感さえ抱いていたのに、その後ショパンの死の2年前までその関係は続きます。 二人のことを出会いのときから知っていた知人は”もしもショパンがサンドに出会うという不幸に見回れず、彼女にその生命を毒されなかったら長生きをしていただろう”とまで言われています。
これはジョルジュ・サンドの髪の毛の収められたもの。

ここはワルシャワ国立美術館。
ポーランドの画家や、教会に納められた彫刻の数々を中心に展示してありますが、のんびりとこの国の美術品に触れるにはよい場所でした。
ここでちょうど行われていたのが、ポーランドに保管されている日本の美術品のエキシビジョン。
まさかこんな場所で葛飾北斎に会うとは思いませんでしたが、地元の皆さんもじっくり鑑賞されていました。

 

この日は朝から広大な公園、ワジェンキ公園へ。
ここには有名なショパンの銅像があって、戦争で破壊されましたが、その後復元されました。

台座には
”1940年3月31日ドイツ軍によって破壊され、強奪されたフレデリック・ショパンの像はポーランド国民が復元する”
”炎は絵画を燃やし、盗人は宝を奪い、しかし歌は残る・・・”
と刻まれています。
この公園は18世紀後半に、ポーランド最後の王がワジェンキ宮殿を建設したことに始まっていて、現在も緑豊かで花の咲き乱れる公園になっています。


水上宮殿。
まるで絵画の中にいるようです。









Pl. Konstytucji。 のーんびりとカフェでお茶をしながら人間観察。

ここも花の咲き乱れるサスキ公園。

この公園には無名戦士の墓で、1944年に破壊されましたが、その後再建されました。
ここはもともとサスキ宮殿のあった場所で、現在はその柱のみが残っていますが、ショパンが生まれてすぐ、一家はこの一角へ引っ越して来ています。
毎時衛兵の交代が行われているそうです。


ワルシャワの交通機関は充実していて、最近新しいメトロも出来たようなのですが、大体このトラムと徒歩でどこでも行くことが出来ます。

この日はメジャー観光地のワルシャワ歴史地区と呼ばれる旧市街へ。
13世紀に建設された旧市街。 美しい建物が立ち並んでいますが、これは大戦で徹底的に破壊されたものを、出来るだけ残された破片などを再利用して再建したもの。





 
ワルシャワの象徴の人魚。 エレガントな人魚ではなく、両手には剣と矛を持っています。

ポーランドを代表する科学者といえばキュリー夫人ことマリ・キュリー。 ここは彼女の生まれた家で、現在は博物館として公開されています。
困窮した生活の中でノーベル賞を二度も受賞した放射能研究の科学者ですが、当時は女性が進学をするような時代でもなく、父が失業後一家は困窮、家族にチフスが移り姉が他界、その後母も結核で失い、14歳の頃には深刻な鬱病に陥ったそうです。
その後拠点をパリに移してからも生活が楽になることは無いながらも、次々と研究の成果を挙げていったそうです。

ここの王宮は1971年まで爆破後の廃墟のままで放置されていたのですが、そこから再建が始まり、現在は戦時中に隠されていた装飾や美術品が元の場所に戻され公開されています。

式典会場などとしても使用されています。 忠実に復元されていて、破壊されていたことなど想像もつきません。



18世紀のイタリア人画家で、ポーランドの宮廷画家にもなったベルナルド・ベッロットの作品の並ぶ部屋もあるのですが、これはヴィスワ川の対岸から眺めた旧市街の様子で、彼の忠実に描いた数々の風景画は、破壊されたワルシャワの街の復興に随分と役立ったそうです。
同じく彼はドレスデンの風景も描いていますが、それもドレスデン復興に役立てられたそうです。

ラドズィウィフ宮殿(大統領官邸)。



1827年から3年間、ショパンは10代後半をこのクラジンスキ宮殿で暮らします。
壁にはそのことを示す板がはめ込まれています
聖十字架教会。 1757年に完成した教会で、ショパンの一家も通っていた場所です。 現在は彼の心臓が安置されています。
 
1945年の教会の様子。

この柱の中にショパンの心臓は納められているのですが、それはショパン自身の願いだったそうで、ショパンの姉がここへ持ち帰ってきたそうです。 ワルシャワ蜂起の際には、さすがのドイツ軍も人の心が残っていたようで、壷を取り出しワルシャワの司教に手渡したそうです。
1945年の10月にはこの教会へ戻されました。
ポーランド科学アカデミーの前に建つのは、地動説を唱えたコペルニクスの像。
そんな大発見をしたコペルニクスですが、カトリック教の司祭でもあった彼の地動説の発表による影響を考え、主著である”天体の回転について”の販売を死期を迎えるまで許可しなかったそうです。
この広場の石畳は天文図になっています。

この日の夜は、ワルシャワ大劇場で行われるオペラ”ウィリアム・テル”を観に。
この劇場は1939年にドイツ軍の空爆を受けますが、完成当時の1833年から1965年までの130年以上、世界最大にして最高の設備を持つ劇場だったそうです。
ロッシーニのウィリアム・テルはりんごの射撃のシーンと序曲は大変有名ですが、自分も今回観に来ることを決めるまではちゃんとしたストーリーを知りませんでした。
オーストリアの権力に対抗するスイス人の姿を描いていて、敵味方で恋をするマティルデとアルノール、スイスの愛国心の強いテルが最後には勝つというお話。
4幕構成の随分と大掛かりで長いオペラで、7時開演で11時15分終わり。 フランス語でポーランド語のサブタイトルのみだったこともあって、長さに耐えられるかが不安だったのですが、歌手もみんな素晴らしく、終始惹きつけられる演出ということもあって、全く退屈することも無く、一緒に行っていた友達も、初オペラだったにもかかわらず最後まで楽しんでくれていました。
ひとつ何があったと言えば、バレエのシーンがあまりにもどぎついコンテンポラリーな踊りで、ちょっと行き過ぎな感が・・・ それ以外は大変楽しむことが出来ました。
短いですか、プロダクションのビデオクリップです。
まだここに来てポーランド料理を食べていなかったので、つぎの日のランチは名物ピエロギとチキンのスープ。 家庭料理が一番美味しいというのがポーランド人だそうで、ワルシャワでも有名なお店で食べたにもかかわらず、友達曰く”これも美味しいけど、おばあちゃんのピエロギが一番美味しい”とのこと。
この日は珍しく随分と暑く(でも多分25℃くらい)、新しく出来たという地下鉄で川の対岸まで行って、そのまま橋を渡って帰っていると汗が滴るほど。

 
川の周辺には1キロくらいに渡って”海の家”ならぬ”川の家”的なバーやカフェが夏の期間だけ並ぶそうで、この日は4時には出て来て冷たい飲み物からスタート。
アルコールも随分と安いので、長時間のんびりと過ごすには、川の流れも気持ちよくて最高。
ポーランドは緯度が高いので、大体夜の9時半くらいから陽が沈む感じなのですが、その頃には川辺もかなりの賑わい。 週末は街中の人達が出て来るそうで、この日は平日ながらかなりの人ごみ。

結局場所を移動しつつ10じ過ぎるまで川辺で語らい。 こんな贅沢な時間の過ごせるワルシャワの人達は幸せだろうねぇ・・・。
ということで、10日間を過ごした素敵なワルシャワでの休暇も終了。 ドイツ経由で日本に帰って来ました! 1ヶ月は日本で過ごします。

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