Tuesday, March 7, 2017

berlin, potsdam ベルリン、ポツダム 観光

何年振りなんだろう。。。 久し振りのベルリンへやって来ました。
今週唯一の晴ということで、ベルリン大聖堂と青空とのコントラストも清々しいです。


この日は朝から世界遺産にもなっている博物館島へ。

今は平和な博物館島も、混迷の時代にはこんな風景だったんですね。



ベルリンにはミュージアム・カードがあって、3日間ベルリンにあるほぼ全てのミュージアムに入場できて23ユーロ。 これは格安!
現在ペルガモン博物館が大工事中で、ほかの博物館も展示してあったものがあちこちに移動していて、お目当てのものがどこに行っているのかを確認するのも大変でした。
まずは確か以前はペルガモンにあったはずのネフェルティティに会うためにNeues Museumへ。
この建物は1855年の建築だそうで、戦争で損傷、その後ずーっと修復が行われていなかったそうで、2009年にリニューアルしたんだとか。 入ったことなかったわけだ。。。
2階のエジプトの展示物は、考古学博物館というよりもアート・ミュージアムのようで、数千年の時を経てはいるものの、どれも美しい展示物ばかりです。





壁画かと思いきや、床にこのような絵が施されていたそうです。 飛び立つ鴨が躍動的かつ大胆な構図で描かれていてとっても新鮮。

ネフェルティティの夫、アクエンアテンこと古代エジプト18代のファラオ”アメンポテプ4世”の胸像。



以前は別の場所にあって写真も撮り放題だったのに、現在はこんな素敵な部屋に一人で鎮座して、超セレブリティになってしまったネフェルティティ。 ということで、博物館で売ってた絵葉書で代用。。
これは前回自分が撮っていた写真。
改めて見ると、本当に美しい胸像です。 すーっと伸びた首に端正なつくりの顔。 ぽってりとした唇にちょっと出たほほ骨とすっと通った鼻。
この像は片目が失われているように見えますが、これは未完の作で、左目は彫った跡すらないそうです。
彼女は王妃であり、かのツタンカーメンの義母に当たりますが、出生の詳細は不明、在位12年後からは全く歴史から消えてしまっているそうで、急死したのか失脚したのか、未だ分からないそうです。
2010年にはイギリスの歴史学者がCTスキャンによる調査をしたそうなのですが、内部には別の胸像があることが分かったそうで、それは鼻が曲がり、目の周りにしわがあったそうです。 現在の胸像は後に美女に作り替えられたものだとか。。。


女神と太陽神ヘリオスの像。
こちらはベルリンで発見された黄金の帽子。 紀元前1300年くらいのものだそうなのですが、あまり詳しいことは分かっていないんだとか。。。




アクエンアテンとネフェルティティ夫妻の肖像。

ベルリン・グリーンヘッドという名前の肖像。 肌感が生々しいくらい。。

アンペルマンの名前で親しまれている旧東ベルリンの信号機。 1969年から出来た信号機で、ベルリン市内を歩いていると、この信号機に違いで東と西が分かります。

ベルリンと言えばブランデンブルク門。
かつてベルリンには関税を課す門があって、それぞれ街道の先にある町の名前がついていたそうなのですが、時代の経過とともに門も取り壊され、この門だけ残りました。


ブランデンブルク門のほど近く、住宅地にあるのがフューラーバンカー。 ナチスドイツの総司令部跡です。
前回来た少し前からここの場所が明らかにされたのですが、その時は訪れる人もほとんどなく、ただの閑散とした住宅地だったのですが、まぁまぁ。。。 今回行ってみたら凄い人だかり。 一大観光地と化していました。
ドイツとしては触れられたくない過去だとは思いますが、ナチスの時代の出来事は、すでにドイツだけの過去ではなく、人類すべての人の負の遺産、過去の人たちが、大犠牲を払って未来の人たちへの教訓を残してくれた歴史なので、このように全ての出来事に光を当てることは、未来の平和に繋がってくれるのでは。。 と祈っています。

ここで起こった出来事、ソビエトが調査、破壊しようとした当たりの話は大変興味深いです。 ウィキ教授をご参考に。

”トポグラフィー・オブ・テラー”。
前回来た時にはまだ廃墟だった場所に出来たのがこの施設。
ここがSS(ナチス親衛隊)、SD(親衛隊情報部)、そしてゲシュタポの本部のあった場所。
当時はこのような姿だったのですが、戦争で破壊された後は廃墟と化していました。
そこに新しく博物館をつくり、過去の歴史についてすべてを明らかにした展示がされています。
1930年代から始まり戦後までへとパネル展示が続くのですが、戦争も終わりに近づくと、人が人へ行う行為とはとても思われない悍ましい写真が並びます。
ドイツとしてはかなり思い切った展示だとは思いますが、ほんと、これは世界人類すべてが平等に負わなければいけない負の遺産だと思います。
殺人は重大犯罪であると、どこの国の法律でも決まっているはずなのに、その国の命令があれば、今でも他国の人たちの命を無差別に奪うことは多くの国で認められています。 一体どういう事なんでしょうか? ここのパネルの写真が何を語っているのか、ゴミのように無数の遺体の投げ込まれた大きな穴、見せしめのために街路樹に並べられた首を吊られた無数の人たち。。。
過去の大犠牲を無駄にする未来を創っては決していけません。



ゲシュタポ本部の建物。 上のレンガはその建物の残骸。
今は林に埋もれています。
ここがナチスの中核であり、ヨーロッパ全土を恐怖に包んだ場所でした。


日暮れ時、アレキサンダー・プラッツをぷらぷら。 どこからでも目立つテレビ塔。
1969年に出来た東ドイツのテレビ塔です。
フンボルトは1769年にベルリンの貴族の家に生まれた、博物学者にして探検家。
フンボルトと名の付くものもいくつか残していますが、ここのベルリン自然史博物館はフンボルト大学の付属の博物館でした。

入ってすぐのホールにはこの巨大な”ブラキオサウルス”。 世界で一番大きな骨格標本らしいのですが、これは1909年にドイツ領であったタンザニアから発掘されたもの。




歴史の古い博物館だけあって、収集物や展示品もクラシカル。
Tレックスのエキシビジョンも開催中でしたが、ブラキオサウルスに比べると迫力に欠けますね。。
で、ここに来た目的はこの”始祖鳥”!! 生物の教科書には必ず出てくるこの標本の写真。 最近は羽毛恐竜が沢山発見されて、恐竜自体が鳥だったという話になっているようで、この始祖鳥の位置関係も見直しが必要な事態にもなりましたが、現在は再び”最古の鳥類”という位置づけに落ち着いているそうです。 が、現在の鳥類の直接の先祖には当たらないそうです。
始祖鳥の化石は1860年にバイエルンのゾルンホーフェンのジュラ紀後期(1億4600万年~1億4100万年前)の地層から発見されました。
始祖鳥の化石は、現在同じ場所から11点発見されているそうなのですが、その中でも一番有名なのがこのベルリン標本。

特徴的な鉤爪のある3本の指。


次のエキシビジョンを待つ標本化石。


次に向かったのはGemäldegalerie(絵画館)。
かのヘンリー8世に気に入られ、有名な肖像画も残しているドイツ人画家ハンス・ホルバイン。
若い頃からその才能を発揮して、イギリスに渡りヘンリー8世の宮廷画家となるのですが、作品の表情はどれも冷めた感じ。 が、衣装なども含めてとっても精密に描いてあります。




ここがカラヴァッジョのある部屋。
”愛の勝利”
以前は別の場所に展示してありましたが、今はこの美術館に収められています。
この絵は当時のローマで最も裕福だったパトロンの為に、1601年から1603年にかけて描かれたもので、その後教会のための絵の製作に情熱を傾けたカラヴァッジョの最後の世俗的な作品群の中の1つだそうです。
”愛は全てを征服する。そして、愛に屈服せよ”を表していて、愛(エロス)とはキューピッドを示し、この絵の製作を依頼したヴィンチェンツォは全てを征服すると解読できるそうで、彼はコレクションの中でも、この作品を一番大切にしていたそうです。
さて、この作品は現代の視点からすると、様々な角度から道徳的な問題があるのでは?という印象も受けますが、当時はこのような作品表現には何ら問題視するものはなく、この作品とエロティシズムを結びつけること自体がナンセンスであり、17世紀の人々の視点から鑑賞することが必要です。
ここで描かれているキューピットは理想化された姿ではなく、かなりリアルな男の子の姿をしていますが、カラヴァッジョの極端なコントラストで動きの一瞬が切り取られています。
さて、カラヴァッジョの隣にあるのがこちらの作品、ジョバンニ・バリオーネによる”天上の愛と俗世の愛”。
1602年、”愛の勝利”が完成してすぐに、ヴィッチェンツォの兄弟のベネデットがジョバンニ・バリオーネに絵画の制作を依頼します。 バリオーネとカラヴァッジョは作品の制作依頼を奪い合う競争相手。
この作品はカラヴァッジョのスタイルを模倣していて、あからさまなカラヴァッジョへの挑戦でした。
横たわる少年のキューピッド(世俗の愛)を反対にいるルシファー(サタン)から引き離す天上の愛が描かれています。

15世紀のヴェネチア派最大の巨匠ジョヴァンニ・ベリーニの作品。 彼の後をティツィアーノ、ティントレットなどが続きます。
まるでウフィッツィでは?と思うくらい素敵なボッティチェリの作品が並びます。
1477年の聖母子像。
彼とフィリッポ・リッピほど人を極限まで理想化して内面まで美しく描いた人はいないように思います。
清らかでイノセントな空気に包まれます。
”シモネッタ・ヴェスプッチの肖像”
シモネッタ・ヴェスプッチはジュリアーノ・デ・メディチの愛人にしてフィレンツェ随一の美女。
ジュリアーノは兄ロレンツォとパッツィ家の陰謀に巻き込まれて、20代半ばでその生涯を終えますが、シモネッタもジュリアーノが亡くなるちょうど2年前の同日、わずか22歳でその生涯を終えています。
彼女は多くの画家のモデルとなりましたが、ボッティチェリのかの”ヴィーナスの誕生”も彼女がモデルです。
フィレンツェのサンタ・マリア・マッジョーレの為に描かれたサン・セバスティアーノ。
”聖母子と二人の聖ヨハネ”
この祭壇はメディチ銀行のイギリス支店長だったバルディが、自分の礼拝所の為にボッティチェリに注文した作品。

”ヴィーナス”
シモネッタの肖像画と同じく、髪の内側から三つ編みをしているのは共通していますね。
ヴィーナスの誕生とは髪型が違うだけで、ほぼ同じ姿をしています。
再び博物館島に戻って来て、閉館1時間前にボーデ博物館へ。
彫刻やコインなどを中心に展示してあるのですが、何よりこの建物が素晴らしい!

このエントランスから息をのむ美しさ。

1706年の、もともとはベルリンの宮殿の大階段を飾っていた彫刻が並びます。

15世紀中期のフィレンツェのテラコッタの祭壇。

美しい大階段。

キューピッド。


フィッシングとハントのレリーフ。 本当に写実的に彫られていてユニーク。

18世紀後半の聖ロクスの像。


Paul Egellによる作品。


まるで巨大な仁王像のに立つこちらはサン・セバスチャン。
こちらが聖フローリアン。


16世紀中期のヘンリー2世の息子であろう”若きプリンスの胸像”。 

16世紀前期のサヴォイの侯爵の胸像。 小さな胸像なのに肌の質感まで表現してあります。
このエントランスの2階にはカフェがあって、ここを眺めながらお茶をすることが出来ます。
閉館までのひと時、ほとんど人のいなくなった館内を一杯のコーヒーと共にじっくり味わいました。
ヨーロッパでしか味わうことの出来ない至福の時。



日暮れのひととき。

赤の市庁舎。
次の日に向かったのはベルリンの郊外ポツダム。
ポツダムと言えば、日本人にとって馴染みの深いのはやはり”ポツダム宣言”ということになると思いますが、ここは中世からプロイセン公国の拠点の一つとして発展した場所で、その宮殿群は世界遺産にもなっています。
ベルリンとポツダムの公共交通機関一日乗り放題券でも7.70ユーロなので、随分お得。

サンスーシー宮殿。
1745年から、フリードリヒ2世の命で、わずか2年の間に建てられた宮殿。
ベルリンの陰鬱な宮殿から離れる為、夏の離宮として建設されたものの、ここを気に入ったフリードリヒ2世は、ここを居城として過ごします。





庭はたいへん広くユニークなつくりになっているのですが、建物自体は平屋建て、部屋数も12と、こじんまりとしたつくりになっています。


フリードリヒ2世の書斎。 背があまり高くなかったフリードリヒ2世のため、本棚も低めに設えてあります。
執務室兼寝室。 キャビネットの上にあるのが彼の有名な肖像画。
こちらの椅子は晩年横に寝るのも辛くなったフリードリヒ2世が使い、そして亡くなったと言われるもの。
音楽室にはバッハの息子も演奏したという鍵盤、その上にはフリードリヒ2世のの使っていたフルートが置かれています。 彼自身作曲も行っていて、オーディオガイドではその曲も聴くことが出来ます。
壁や天井は金で植物模様や蜘蛛の巣が描かれています。
狩猟の好きだったフリードリヒ2世にちなんだ装飾も。
ここの部屋では毎晩10人くらいで夜のひと時を楽しんでいたようです。
中央部は楕円の部屋と呼ばれる大理石の部屋。
円柱はイタリアの継ぎ目のない大理石。 床にもマーブル模様が施されていて大変豪華。


いくつかのゲストルームも大変贅沢。
こちらはマイセンに造らせたヴェース。
ここがヴォルテールの部屋。 彼は実際には町の宮殿に滞在していたそうなのですが、ここにも彼の名前の付いた部屋が残っています。
この頃はプロイセンでもフランス語が普及していて、フリードリヒ2世自身も、ドイツ語よりもフランス語の方が得意だったそうで、大変に教養の深かった人なんだということは想像がつきます。



なんともポエティックでエレガントな装飾。


出口にはウォーホールの描いたフリードリヒ2世の肖像画。


1760年、7年戦争の最中にマイセンで作らせたテラスを飾るためヴェース。
サンスーシー宮殿から途中までバスに乗り、そこから公園を歩いて次の宮殿へ。
途中にあるのがこの大理石宮殿。 ここも20世紀初頭までホーエンツォレルン家によって使われていました。

この辺りは湖があり、木々があり、さぞ緑の茂る季節には心地のいい場所なんだろうなぁと想像します。
その公園を端まで歩いて辿り着くのが”ツェツィーリエンホーフ宮殿”。
ここは1917年に、ドイツ最後の皇太子ヴェルヘルム・フォン・プロイセンのために建設されたもので、夫人ツェツィーリエの名前が付けられました。
ここはかのポツダム会談の行われた場所。
この時すでにベルリンはことごとく破壊され、会議を開く適当な場所がありませんでした。 ポツダムも市街地は空爆されていましたが、この宮殿は無傷で残っていたためこの場所が選ばれました。

皇太子一家がここで写した写真。
左前列が長男ヴィルヘルムですが、卑賎結婚をしたためプロイセンの王位継承権を喪失したため、次男ルイ・フェルディナントに継承権が移ります。
第二次世界大戦に参戦、対フランス戦線で33歳の若さで戦死します。
1933年、ヒトラー内閣が成立した際には協力的だったヴィルヘルムですが、ヒトラーが帝政を復活させる気がないことが分かった頃から両者の関係が悪化、そんな中1944年にヒトラー暗殺を謀った7月20日事件が起こります。 ヴィルヘルム一家はゲシュタポの監視下に置かれ、戦争犯罪などの罪も問われ、ホーエンツォレルン城に軟禁、1951年に亡くなります。
この部屋は船旅が好きだったツェツィーリエの為の部屋。 家具なども船と同じく壁にくっ付いていて、丸みを帯びた窓も実際に船で使われているものを設えたそうです。
彼女はここでいつも朝食をとっていたそうです。

ナチスドイツ降伏後、1945年7月17日から8月2日にかけてポツダム会談が行われました。
アメリカ(トルーマン)、イギリス(チャーチル)、ソビエト(スターリン)のトップ3が集まり、第2次世界大戦の戦後処理について話し合われたものです。 日本の無条件降伏を求めるポツダム宣言が表明されますが、この会議で優位に立っていたのはアメリカで、この時日本はソ連を仲介に平和交渉を進めようとしているとの情報があり、それを防ぐためにも降伏勧告の必要があったようです。

階段の最中にソ連の使っていた部屋で、この机がスターリンの使っていたもの。

ここが会談の行われた部屋。
テヘラン会談、ヤルタ会談を経てのポツダム会談でしたが、世界の大混迷の末に行きついた場所。

当時の様子です。

ここがイギリス政府の部屋。 チャーチルは途中で帰国、その後はアトリーが引き継ぎます。

ここがトルーマン大統領の部屋。 もとは皇太子の部屋だったので、いまでも皇太子の蔵書が本棚には並びます。



8月14日、日本政府はポツダム宣言を受諾し、連合国に通知。 翌15日に玉音放送で国民に終戦を伝えました。
9月2日、東京湾内に停泊するアメリカの戦艦ミズーリの甲板で降伏文書に調印します。

こちらの宮殿、現在は工事中ですが、一部がホテルとして利用されているので、宿泊することも可能です。
昔初めてベルリンに来た頃にはまだまだ空き地だらけで、東と西が完全に分かれている印象があったのですが、今ではその傷が癒えるように新しい建物が立ち、昔の記憶も薄らいでいっている印象です。
恒久にこの平和が続きますように。

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